風に恋う β版|第1章|10

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「もう早起きからは解放されると思ってたのになあ……」

 トーストをかじろうと大口を開けた瞬間にそんなことを言われ、基はそのまま固まった。眼球をきょろりと動かして、台所に立つ母の背中を見る。焼きたての厚焼き卵を包丁で切って、弁当箱に詰める。電子レンジから冷凍ハンバーグを取り出して、同じく詰める。

「五時起きの生活ももう終わりだと期待してたのに」
「す、すみませんでした……」

 中学三年間、母は毎朝五時に起き、朝練のために六時に家を出る基の朝食の準備をした。それが月曜日から金曜日まで。土日も朝から夕方まで練習があって、母に弁当を作ってもらった。それが中学三年間、お盆と年末年始の数日を覗いて、ほとんど毎日続いた。

「大体あんた、高校は勉強に集中するから吹奏楽は中学でやめるって言ってたのに」

 この話をされるのは何度目だろう。「やっぱり千学の吹奏楽部に入りたいです」と両親に頼み込んで入部届に判を押してもらってから半月以上たち、五月の連休も明けた。基の生活はすっかり《吹奏楽》で染まっていた。

 だって、全日本吹奏楽コンクールで金賞を受賞した時代の部長・不破瑛太郎がコーチをするんだから。そりゃあ、入部するだろう。『夢やぶれて』を吹いたときの決意や涙はどこへやら、基はすっかり開き直っていた。

「中学とは違うってわかってるからさ。勉強もちゃんとやるし……」
「当然よ。高校受験と違って、大学受験は人生かかってるんだから。中学のときみたいに三百六十五日部活やってたら、絶対後悔するから。玲於奈ちゃんのお母さんも大変みたいだし」

 トーストを無理矢理口に詰め込み、「わかってるよ」と基は頷く。母は、本当は吹奏楽部に入ってほしくなかったのだ。勉強しなさいと口うるさく言う教育ママにはなりたくないから、一応許可はしてくれた。でも本当はしっかり勉強してほしい。そんな本音が言外に聞こえる。

 階段を下りてくる足音がして、淡いブルーのブラウスと紺色のパンツを穿いた姉の里央が現れた。洗面所に駆け込んだと思ったら、あっという間に化粧をして戻ってくる。

「里央、トースト何枚食べる? 一枚でいい?」
「いらない」

 母の声に素っ気なく応え、そのままリビングダイニングを通り過ぎて玄関へと向かう。すでに鞄を肩から提げていた。

「姉ちゃん、もう会社行くの?」
「早めに行って仕事したいから」

 振り返らず里央は玄関の方へ消える。トーストの耳を口に放り込んで基も席を立った。

「基、これ、里央の口に放り込んで」

 母が生の食パンにジャムを塗りたくって半分に折り、基に渡してくる。「りょーかい!」と預かって、弁当をリュックサックに入れて家を飛び出した。

「姉ちゃん!」

 ハイヒールを履いた里央にはすぐに追いついた。食パンを差し出すと、ほんのちょっと鬱陶しそうな顔をされたけれど、ちゃんと受け取ってくれた。リップグロスが落ちないよう、小さく千切って口に運ぶ。

「仕事が始まるのって、九時半からじゃないの?」

 七歳年の離れている姉の里央はこの春大学を卒業し、都内にある広告代理店に就職した。働き始めてまだ一ヶ月程度だというのに、朝家を出る時間はどんどん早くなり、帰宅時間はどんどん遅くなっている。時刻はまだ六時半。会社まで一時間ほどで着くのに、もう出勤だ。連休前は終電で帰って来た日もあったし、連休中だって何日か出勤していた。

 うっすらと目元にある隈は、化粧でも隠し切れていない。父も母も「新人のうちは仕方がない」と言いながら、内心は心配しているはずだ。

「朝ご飯くらい食べて行ったら? お昼まで持たないでしょ?」

 朝食を取ってから家を出ても、会社に着く時間は三十分くらいしか変わらない。三十分で片付けられる仕事なんてたいした量じゃないだろう。そんな風に言ったら、食パンを食べ終えた里央にぎろりと睨まれた。

「高校生のあんたにはわかんないよ」


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額賀 澪 NUKAGA Mio

小説家。最新刊『風に恋う』発売中。2015年松本清張賞・小学館文庫小説賞受賞。既刊『屋上のウインドノーツ』『ヒトリコ』『タスキメシ』『さよならクリームソーダ』『拝啓、本が売れません』など。詳しくは>>>http://nukaga-mio.work/

『風に恋う』β版|額賀澪|試し読み

7/13刊行の音楽×青春小説『風に恋う』(文藝春秋)の校了前の文章(β版)です。ほとんど初稿の状態です。なので、誤字脱字など、未校正の部分がありますことをご了承ください。(『拝啓、本が売れません』(KKベストセラーズ)に先行掲載したものとほぼ同じ内容です)イラスト:hiko
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