風に恋う|番外編|サンライズ・マーチ

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 汗が目に入って、思わず舌打ちをしてしまった。

 いいところだったのに。
 いい感じに吹けていたのに。

 首にかけていたタオルで額を拭って、ついでに髪や首回りや腕も拭いて、水を飲んで、基はもう一度サックスを構える。

「暑い! 無理!」

 背後から堂林の苛々した声が飛んできて、基は振り返った。トランペットを片手に、彼は廊下と非常階段を隔てるドアに体を預けていた。「あ、ここ冷たい。気持ちいい」とそのままドアに抱きつく。

「この暑さやばくない? 地球溶けない? ペットのラッパで目玉焼き作れそうなんだけど」

 七月に入ってからずっと、基は昼休みも練習に当てていた。いつの間にかそれに堂林も加わるようになって、地区大会が近づいてきた最近は、結構な数の部員が朝も昼も練習している。

 音楽室では他の楽器の音と混ざるし、できるだけ音が響かないところで練習がしたくて、基は特別棟の非常階段を使っている。日陰はあるのだけれど、やはり屋外は暑い。

「顔真っ赤だけど、大丈夫?」

 熱中症とかマジやめろよな。堂林にそう顔を指さされ、すっかり温くなってしまった水のペットボトルを頬に当ててみる。

「ちょっと休憩する」

 床に大きめのタオルを敷いてサックスを慎重に置き、階段に腰を下ろす。

「練習量でいったらお茶メガネが部でナンバーワンだろうな」
「お茶メガネゆーな」

 階段の手すりに寄りかかって、深く息を吸って吐く。

「自分が情けない」
「なんで? 一回も合奏でソロ吹かせてもらえないから?」

 地区大会本番まであと五日。いい加減、自由曲のソロをどうするか瑛太郎は決断するだろう。

「それもあるし。結局、一年生部長になんてなったけど、たいして部長らしいことしてないし」

 幹部会議のまとめ役は玲於奈だし、各パートでの話し合いや揉め事の解決はパートリーダーの三年生が仕切っている。

「自分のことで精一杯だし、ソロも満足に吹けないし」

 呼吸は、今度こそ溜め息になった。音楽室から、廊下から、校舎の外から、練習の音が聞こえる。瑛太郎から出された課題を合奏までにクリアすべく、みんなこんな暑い中、昼食を掻き込んで歯を磨いて、練習している。

 さまざまな楽器の音の中に、オーボエの独特な音色が聞こえて、基はビクリと肩を揺らした。

「……玲於奈だ」

 音は思ったより近かった。この非常階段の真下で吹いている。他の部員とは少し遅れて、玲於奈も自主練を始めたようだ。もちろん、『風を見つめる者』のソロパートの。

「鳴神先輩、上手いよな」
「上手いよ、玲於奈は上手い」

 オーボエはただせさえ難しい楽器なのに、しっかり歌わせることができる。中学の途中までは基と一緒にアルトサックスを吹いていたのに、顧問からオーボエを吹いてみろと言われて、あっという間にマスターしてしまった。

「なんていうか、腹が据わってるんだよ、音が」

 トランペットの唾を抜きながら、堂林が呟く。腹が据わってるという表現に、何だか合点がいった。

「聴かせてるんだよ、僕に」

「え?」

 昨日まで、玲於奈は昼休みは別の場所で自主練をしていた。地区大会まで五日を切った今日に限って基の側で練習しているなんて、それ以外考えられない。

「僕に聴かせてるんだ。『私はこんな感じでソロを吹くけど、あんたはどうなの』って」

 紺色のネクタイと二つに結った髪を揺らして、玲於奈がオーボエを吹いているのが脳裏に浮かぶ。彼女の顎先から汗が滴り落ちて、地面に黒い染みを作る。

 ありありと、それが浮かんだ。

「僕もやらないと」

 床に置いておいたサックスを手に取ると、堂林が下を指さした。

「俺もこのへんでやっていい? ワンフロア下でやるから」
「暑くて無理なんじゃなかったの?」
「ペットのソロも、本番直前の状態を見て誰に吹かせるか決めるって言われてんだよ」

 遠くから聞こえてくるトランペットの音に、彼は「これ、櫻井先輩」と呟いた。

「俺も聴かせてやろうかと思って」

 ガラス玉のような澄んだ目でにやりと笑って、堂林は階段を下っていった。


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ありがとうございます。
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風に恋う|額賀澪|番外編

『風に恋う』(文藝春秋)の番外編です。作者が自由気ままに書いていますが、出版社を通していないので誤字脱字など未校正の部分がありますことをご了承ください。

コメント1件

「風を恋う」読ませてもらいました。本当に好きです。最高です。読了後も基や瑛太郎先生のことが忘れられません…小説で、もっと続きが読みたいと思えたのが初めてです。こうやって番外編を投稿してることを見つけられてほんとに良かったです……応援してます、頑張ってください!
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