見出し画像

#nf3Note ぼくとやきゅうとらいおんず

(今回は純粋なブログです。データの話は出てきません、たぶん。)

現在、僕は特定の球団を応援することはせず、12球団を広く浅く眺めるスタイルを取っている。単純に「野球を観るのが好き」だからだ。
どこかの球団を応援したりdisったりするのはとても疲れる。
それよりも野球そのものを俯瞰してる方が楽しいし楽だ。

そんな僕でも、ある球場では特別な感情が未だに湧いてしまう。
それはファンを辞めてから四半世紀経った今でも変わらないから不思議だ。

「ただいま、西武ライオンズ球場。」

画像4

僕とプロ野球を繋いでくれた「仲人役」は「西武ライオンズ」である。
埼玉に住んでいる伯母から勧められ、物心ついた時にはすでに
「西武ライオンズ友の会」に入会していた。
正直、いつ頃から本気で応援し始めたのか、正確なところは覚えていない。
ただ、小学生時代が常に「西武ライオンズ」とともにあったのは紛れもない事実だ。
帰宅すれば夕飯までモノラルラジカセの目盛りをQRに合わせ、那智チャコが終わった後、「文化放送ライオンズナイター」にかじりつく。
何しろ、スマホはおろかネットも無い時代。しかもパリーグ大暗黒時代。
ライオンズの情報源はライオンズナイターとナイスプレー! ライオンズくらいしかないのだ。
そして夕飯が終わると再びラジオを付ける。風呂場でもラジオ。
当時、僕は静かな場所が大嫌いだった。たまたま懸賞で当選した防水ラジオがあったので、風呂の中でもラジオを付けナイター中継を聴いてたのだ。
その後はヤンパラだったりOh! デカだったりを…というのはさておき。

GWや夏休みになれば1度は西武ライオンズ球場に足を運ぶのが恒例行事だった。なにしろ西武ライオンズ友の会(小学生まで)の会員は自由席が無料。
行かない理由が無かった。
GWでも日差しが強いとスタンドが暑くなる。その時に飲むつめたーい狭山茶のなんと美味しいことか。もちろんメロンソーダとかのジュースも美味しかったけど。当時おそらく缶の冷たいお茶と言うのが余り無かったんじゃないかと思うので、「冷たい緑茶」というのがとても物珍しかったことを覚えている。

画像2

まだピュアな小学生だったので応援活動も楽しくやっていた。メガホン2つをバシバシ叩いてかっとばせー清原とやっていた。応援歌の書かれている紙を応援団から10円で買って必死に覚えたりした。
ちなみに僕が行くとだいたい清原は打たなかった。
その代わりバークレオがよく打ってたな…。

小学校高学年くらいになると見よう見真似でスコアブックを付けて遊んだりもした。外野席で付けてたら周りのおじさんに話しかけられたこともあった。余ったページでは妄想ライオンズゲームで遊んだりもした。

身に着けてるグッズもライオンズグッズだった。ねじ巻式腕時計を付け、
秋山や清原のバッジを付けたレオマークの青い帽子を毎日被り登校していた。家庭科の裁縫の実習ではライオンズのペットマークの刺繍を付けたりした。
自転車に乗っているときに目の前にいた高校生のカップルに気を取られすっ転んで頭を打ち、青いライオンズ帽の一部が紫色になったりもした。


画像7

※今でも使用している定期入れ。薄くなってるけど真ん中にレオマーク。

画像1

西武ライオンズ10周年である1988年に発売された「Vの軌跡」というカセットがあった(上図・なお現在カセットは行方不明である)。
まだ小学生の自分にとって2000円の買い物と言うのはかなり勇気がいることだった。でも買わずにはいられなかった。グリナード永山の新星堂でなけなしの2000円を出し、カセットを買った。戸谷真人アナのナレーションにより語られるライオンズ10年間の記憶に僕は興味津々だった。
ちなみに「(埼玉)西武ライオンズ」となってから最下位になったのは初年度の1979年のみであり、2019年まで40年間も最下位がない…おっと、今回はデータの話はしないんだった。

とにかく、僕の小学生時代の想い出は「西武ライオンズ」抜きでは語れない。まさに生活の一部に「西武ライオンズ」が組み込まれていたのだ。

そんな僕も、中学生になり、ライオンズ友の会から後援会に切り替わる頃から、「西武ライオンズ」に対する気持ちも徐々に薄れていった。

後援会になると割引券がもらえるだけになるので、徐々に球場に行く回数も減った。中学生になると当然部活も忙しくなる。
そして誰もが通る道「中二病」。
「西武ライオンズを必死で応援している自分」
を俯瞰した時になんだか恥ずかしくなってきている自分が居た。

明確に「西武ライオンズファンを辞めます」と思った時期はよく覚えていない。ただ、野球を観ること自体が嫌いになったわけではなかったので、特にどこを応援してると言う感覚もなく、野球全体を眺めてる時期が高校、大学時代までなんとなく続いていく。
なので、この時期の野球知識は薄い。
でも、大学2年の1997年にライオンズファンの友人に連れられて観た東尾西武初優勝の瞬間は忘れられない。鈴木健の高い弾道の打球がスタンドインした瞬間の興奮はすごかったし、周りにつられてずっと「東尾」コールしていたことも鮮明に覚えている。
ただ、それも一時的な感情だった。
それ以降も「西武ライオンズファンに戻ろう」と思うことはなかった。

そして僕にとって西武ファン復帰への想いの消滅を決定付けたのが
「筆記体のLionsロゴの消滅」
だった。
家庭科でライオンズペットマークを刺繍した僕にとってはレオマークと筆記体のLionsロゴはまさに「西武ライオンズのアイデンティティ」そのものだった。その筆記体Lionsロゴが消えた。
もちろん時流に合わせて変化していくことは重要だ。それはよくわかっている。わかっているけど…でも阪神や巨人がロゴを変えることはしないじゃないか。
やはり受け入れられない自分が居た。
さらに地域密着を掲げ「埼玉西武ライオンズ」に移行した後の2009年。
「L」のロゴが僕の知らない得体の知れぬものに変わった。

明確に、ひとつの時代の終わりを認識した。

「ぼくの中の西武ライオンズはこれで終わりました」

- あれから10年が経過した。

「埼玉西武ライオンズ」は低迷期も迎えたが、森西武黄金期の1番打者だった辻発彦監督により、パリーグ2連覇を果たすまでに復活した。
山賊打線の破壊力はとても魅力的だ。森西武の黄金期より上かもしれない。
(投手のことは触れないでおく)
そして「埼玉西武ライオンズ」の2019年の観客動員数は182万1519人、平均観客数25299人まで増加させている。
まだ始まったばかりであるが、埼玉県の各都市ともパートナーシップを結び、「埼玉のライオンズ」であることのアピールも続けている。

ぼくの知らない「埼玉西武ライオンズ」は、ぼくの知らないところで、ぼくの知らない新しいファンを着々と集め続けている。

あのまま「埼玉」も付けず、ロゴを変えずに「西武ライオンズ」のままであったとしたら、今と同じ結果を得られたのかは正直わからない。
「筆記体のLionsロゴが消えた」段階でぼくの中でのライオンズは終わっている。でも今も「埼玉西武ライオンズ」はさらに多くの人に愛され、日本一のチームを目指して突き進んでいる。

またライオンズファンに戻ることは恐らくないだろうと思う。
(でも嫌いにはならないとも思う)
しかしもう過去のことをグダグダ言っても仕方がない。
1野球ファンとしてこれからも「埼玉西武ライオンズ」を観ていきたい。
今はそう思っている。

ただひとつだけお願いがある。
球団名も球団ロゴも変更した。しかし、

「西武ライオンズ球場」

この場所だけは絶対に変えないで欲しい。(まずありえないと思うけど)

画像4

名称は変わっても今も心の中では「西武ライオンズ球場」のままだ。
ぼくの野球のスタート地点はいつまでも「西武ライオンズ球場」だ。
この想い出の場所だけはなんとか繋いで行って欲しい。そう思う。

明確に野球を観ていた記憶があるのが1986年頃。なので、野球に出会ってからすでに34年の月日が経過している。
その間に、幸いなことに結婚をさせてもらい、可愛い愛娘も産まれた。
今年で5歳になるが、夏にようやく野球場デビューをさせた。
横須賀スタジアムというファームの球場ではあったが、グラウンドを走るイベントは楽しかったみたいだ。

画像5

近いうちに、1軍の球場もデビューさせようと思っている。
もちろん、どこかで所沢にも連れて行くつもりだ。

その時には、娘にちゃんと伝えようと思っている。

ここは、パパが野球と出会った場所なんだよ

娘も、野球に興味を持ってくれるといいな。

画像6


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?