連続ブログ小説「南無さん」第八話

 平生から長らく近所の公園で用を足していた南無さんが、官憲の手によってそのところを追放されて久しい。

 いかに用を足し習わしたかわやが無くなったとはいえ、往来で放尿することの不届きさを奇跡的に解していた南無さんは、そのころから致し方なく自邸の垣根へ用を足し続けていた。

 黄金色の打ち水は今日も垣根のシキミを濡らし、葉は水を弾いて玉の輝きを放っていた。ようようと登り始めた朝日に、飛沫がキラキラとまばゆく光る。

 垣根にやってきた雀と問答をしていた南無さんがふと目を下ろすと、なにやら自分の股間に燦然と虹がかかっていることを発見した。

 涅槃もかくの如きかなと思っていると、雀が問答の続きを始めだした。

「そもさん、生きるとはなんぞや。」

「先日、尿道から血が出たが、なめてみるとしょっぱいのだ。」

 いまや無事に輝きを取り戻した尿を眺めながら、南無さんは感慨深げに答えた。雀はまた、こうも問うた。

「そもさん、死ぬとはなんぞや。」

 すると南無さんは途端に顔を曇らせて、雀の方を見た。口を開きかけてすこし言い澱むと、眉を八の字に寄せてこのように答えた。

「やんぬるかな、耳かきは耳を掻くものであって、決して尿道を掻くものではないらしいのだ、手前さまも覚えておくがよろしい。尿道かきというものが無いのは、やはり文化の怠慢かと思われるが、如何に。」

 逆に問われた雀はどうにも答えに窮したと見えて、首を少し傾げたと思うと、ふっと垣根の向こうに身を躍らせて、どこかへ飛び上がっていってしまった。

 南無さんの長い長い放尿が終わると、屋敷には静寂が訪れた。ささやく雀もいなければ、ほとばしる尿もない。南無さんはまた話し相手を失ってしまったが、落胆も束の間のことである。南無さんにはもう一人話し相手があった。

 やあやあ、ごきげんよろしゅうござるな、起き抜けではあるが、なに、日和がよければなんでもよい、一献交えようではないか。

 南無さんは台所から持ってきた一升瓶と汁椀をドンと畳に置くと、壁に向かってそのように語りかけた。その壁には以前どうにも生活の立ちゆかなくなった南無さんが狂を発して局地的な大尿を食らわせた過去があるが、その後芳しからざる天候と不衛生が奏するかたちで、壁には広く黒カビが立ち上り、子供の背丈ほどの高さにまでなっていた。南無さんが語りかけているのはこの黒いシミなのである。

 まあ、そう言わず、まあまあ、一献。

 そう言って汁椀に一升瓶を傾けると、中からは何やらよくわからない半透明の液が流れだした。もはや残りが少ないと見えて南無さんが瓶を逆しまに注ぐと、最後にはいくばくかの滴りとともに、カマドウマの死んだのがぽろりと椀に落ちた。

 ぷかぷかと漂うカマドウマをギッと凝視していた南無さんは、しばらくのちに一転破顔一笑し椀の中身をグイと飲み干して高らかに哄笑を上げた。カッカッカ、といつにない明るい空気が屋敷を包んだ。

 いやあ、愉快。今日は吉日だ。まあ、主も一献、まあまあ。

 そう言いながらもう中身のなくなった瓶を何度も傾けながら、南無さんは壁の黒い影と長らく語り合っていた。

 やがて夜が更けると南無さんは泥のように眠った。穏やかな顔をして、すやすやと、とても心地よさそうに、少し夢精する。

 射精した自覚はあるが、南無さんは起きない。

 いいのだ。出してしまえばいいのだ。もっともっと。そう、もっと……

 これでいいのだ、と思いながら、南無さんは再び眠りに落ちる。

 こんな一日でも、よかったのだと、そう思った。

 今日は南無さんの誕生日だったのだ。

 鈴口からこぼれ落ちる残滓がごとく、南無さんの瞳から一粒の涙が下った。

 次の日にはもう雀は来なかった。

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