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一番身近にある世界一周旅行

第1章 本屋のたのしみ (3)

 本屋を一周することは、世界を一周することに似ている。

世界のあらゆることについて書かれた本が存在する。今夜のおかずのレシピからグローバル資本主義まで、バッタの生態から現代宇宙論まで、うまい棒図鑑から高級時計カタログまで。本は何でもありだ。以下は、とある風変わりな図書館を描いた小説の一節。

 表紙には厚ぼったいラベルが糊づけされていて、その貼紙には緑色のクレヨンで、太々と題名が書きこまれていた。

  『ホテルの部屋で、ロウソクを使って花を育てること』
   チャールズ・ファイン・アダムズ夫人著

「すばらしい題ですね」わたしはいった。「この図書館には、このような本はまだ一冊もありません。これがはじめてですよ」

リチャード・ブローティガン『愛のゆくえ』(早川書房、二〇〇二)一五頁

 もちろんこれはフィクションで、実際に「ホテルの部屋」で「ロウソク」を使って「花を育てる」ことについての本は、ぼくの知る限り存在しない。とはいえ、いつか誰かが書けば、それは存在してしまう。なにせ、日本の出版流通に乗る本だけで、年間八万点が出版され続けているのだ。この世界の何についてであっても、一冊の本として凝縮され、存在し得る可能性が開かれている。そのように考えると、本屋を一周すれば、世界のあらゆるものに出会う可能性があるということになる。

 もちろん、インターネットも世界に似ている。インターネットでは、世界中のあらゆる人のさまざまな営みが、日々情報として可視化され続けている。けれどそれはほとんど無限にひろがっていて、いま自分がどこにいるのか、相対的な位置というものがない。どれだけリンクからリンクへと点をたどっていっても、一周することができない。本屋が地図で見渡せるひとつの世界だとしたら、インターネットは果てしなく広がる宇宙空間のようだ。

 本屋は有限で、そこを実際に足で歩いて一周できる。本屋に訪れる客の様々な欲望に応えるべく、一定の秩序があり、あらゆる本が棚に並べられている。

本は世界そのものであり、世界の尖端で打ち震える何かの化身なのかもしれない。われわれは、この世界にふれたい、この世界のことを理解したいという深い欲望を抱いています。そして世界を理解しようとする探究のはじまるちょうど入り口のところに、いつもモノとしての本がある。われわれはその本を実際に手にとり、そこから未知の世界のリアリティにおそるおそる手をのばしてゆく。こうした意味での世界でもあり本でもあるような何かは、誰にたいしてもつねにひらかれているはずです。

今福龍太『身体としての書物』(東京外国語大学出版会、二〇〇九)一五頁

 すべての本屋は、様々な世界への入り口の集合体だ。飽きることがないのは当然だ。駅前のロータリーに、商店街の片隅に、デパートの上階に、ショッピングモールの一番奥に、世界一周の旅への扉がひらいている日常は、なんと豊かだろうか。

※『これからの本屋読本』(NHK出版)P15-18より転載


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