これからの

「読み得る」すべてのもの

第2章 本は定義できない (9)

「読まれたもの」も含めて本である。「読まれたもの」こそが本であるかもしれない。このことは同時に、この世界に存在するあらゆるものを「読もう」とすれば、「読み得る」ものすべてが本であることを示す。

 たとえば、道路の脇に「飛び出し注意」と書かれている。大抵の人にとってそれは単なる注意を促す情報に過ぎないが、まさに「飛び出し」とでもいえるような、人生を左右するような思い切った決断を目前にしている人が、まるで詩のようにそれを「読んで」しまったら、ふと立ち止まって思いとどまるきっかけを与えるかもしれない。この「飛び出し注意」の看板はこのとき、この人にとっては本になった、といえないだろうか。

「読み得る」のは、必ずしもことばだけではない。先に引用した寺山修司の「空は一冊の本だ」という一節がいい例だ。たくさんの先人たちが、空を眺め物思いにふけり、それぞれの人生の重大な決断をしてきた。見上げた空の大きさ、色の変化、雲の形に、大きなインスピレーションを受け、行動してきた。空にはことばこそ書かれていないが、さまざまに「読まれて」きたと考えると、それが毎日ぼくたちの頭上にあり、見上げるたびに変化していることはとても豊かだ。

 さすがに本屋で空を売ることはできないが、たとえば先の例のように、月の浮かぶ空を撮影した写真集の隣に、望遠鏡を並べて売ることはできる。最近の本屋には、そのようにしてあらゆるものが売られている。売り場のディスプレイとしては何も書かれていなくても、自然と「夜空を望遠鏡で眺めるのはいかがでしょうか」という、店側がつくりだした文脈がそこにある。訪れた客が望遠鏡を購入するとき、その二つの商品の間にある文脈が店頭で 「読み取られた」ことと、望遠鏡によって空という本を「読み得る」ことの二重の意味で、その望遠鏡さえも本である、と言えるかもしれない。

※『これからの本屋読本』(NHK出版)P76-77より転載


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