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『ブラックパンサー』

✳このエントリは作品のネタバレを含みます

 マーベル・ユニバース最新作『ブラックパンサー』でライアン・クーグラー監督とともに脚本にクレジットされたジョー・ロバート・コールは、2016年の傑作ドラマ『アメリカン・クライム・ストーリー/O・J・シンプソン事件』第5話"Race Card"で脚本を務めた人物だ。シンプソン裁判がアメリカにとってどのような事件だったかはドラマを観てもらうとして、『ボーイズ'ン・ザ・フッド』のジョン・シングルトンが監督するこのエピソードは、裁判で加熱する人種問題と陪審員のシンプソン宅訪問が描かれる。
 成功したスポーツ選手であるO・J・シンプソンはアフリカ系アメリカ人のあいだで英雄だったにも関わらず、彼自身は人種問題から目を背けていた。だから陪審員が訪問する前に模様替えをしたのだ。そう語るのは、2016年に現れたもうひとつのOJ録「O.J.: Made in America」というドキュメンタリーだ。
 アメリカがトランプ共和党政権に移行してから起こった、スポーツ選手が国家斉唱を拒否して手を挙げる姿を思い出してほしい。これは公民権運動が盛んだった1960年代にも同じ光景をみることができる。しかしモハメド・アリらがベトナム戦争や人種差別に抗議するなか、OJはカリフォルニア大学で白人に混じってフットボールをプレイしていた。いっぽうそのすぐ隣のワッツ地区では、1965年にアフリカ系アメリカ人と差別的なロサンゼルス警察との間の緊張が爆発し、大規模な暴動が発生していたのである。
 当時の暴動の激しさは、同じく1960年代に起きたデトロイト暴動を描くキャスリン・ビグロー監督の『デトロイト』の通りである。また、ロサンゼルスでは『ブラックパンサー』冒頭の舞台となる1992年にも、ロドニー・キング事件などの警察の対応に抗議して大きな暴動が起きている。ンジョブが「同胞が虐げられるのをみてきた」と嘆くのは、この暴動をみていたからに違いない。そして、それまでOJが何をしてきたかというと、レンタカーのCMと映画に出演し、白人のニコール・ブラウンと結婚し(彼は若い頃から黒人女性と家庭があった)、白人だらけのブレトンウッドに住み、家庭内暴力を悪化させたうえに白人女性とその友人の殺害容疑で逮捕され、世紀の裁判で「なにもしなかった」反動に苦しめられるのである。
 ブラックパンサーでワカンダ国王のティ・チャラにも、「なにもしなかった」過去が襲いかかる。きっかけをつくるのは『アメリカン・クライム・ストーリー』で検察側のクリス・ダーデンを演じたスターリング・K・ブラウンと、ライアン・クーグラー監督作品『フルートベール駅で』『クリード』に続いて出演となるマイケル・B・ジョーダンだ。
 『アメイジング・スパイダーマン』のマイケル・キートンに続いて、マイケル・B・ジョーダン演じるキルモンガーも一癖あるキャラクターだ。復讐や征服欲ではなく、アメリカでの生活と従軍などを通して世の不条理をみてきた彼は、ワカンダの歴史に対して挑戦していくマルコムXのようだ。『クリード』でもみせたマイケル・B・ジョーダンの力強い瞳は、国の行く末で悩むティ・チャラのそれより迫力があるくらいだ。

 ここまで寄り道をしてきたようで、「歴史」も本作で重要な要素である。私は「エンタテインメントで社会性を持ち出すな」といった論調に同意するつもりはなく、個人を越えて世に出すならば、映画もSNSもこのエントリも全て社会性を持っているはずと思う。
 さて、私たちが「日本人」を考えるとき、何を以て日本を定義するかは様々だ。日本という「国」に属するから、日本人という「人種」であるから、日本語という「言葉」を話すから、などである。ライアン・クーグラー監督の過去作をはじめ人種差別を扱うことが属人的であるならば、『ブラックパンサー』は属地的な作品に思う。
 現在では「黒人」より「アフリカ系アメリカ人」の表現が多いとはいえ、この括りも「アメリカ」が建国されてからの概念にすぎない。彼らのルーツを辿れば、奴隷制度から解放されて都市に移動してきた人たちであり(先述の『デトロイト』の冒頭でも説明されていた)、奴隷としてアフリカ大陸から連れてこられた人たちだ。
 『ブラックパンサー』ではそのアフリカが美しく映し出されている。アフリカロケ等が敢行していないとしても、ディー・リース監督の『マッドバウンド』でアカデミー撮影賞にノミネートされているレイチェル・モリソンが切り取った夕陽は、キルモンガーのみたかった光景を完璧に捉えている。ここまで「アフリカ人」を意識するブロックバスター映画は珍しいのではないか。

 社会に根差した脚本が光るいっぽうで、アクションは特徴がないと感じる。韓国の夜景で繰り広げられるカーチェイスは大興奮したものの、タイマンの挑戦や集団格闘は『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』のあとではありきたりだ。理由を考えてみると、それこそ根差しているものが無いように思う。酔拳が酔っぱらいのおっさんであるように、もっとこう、ネコ科のアクションがみたかった。また、ヴィブラニウムでだいたい解決してしまうガジェット群も盛り上がらない部分だ。

 マーベル映画で恒例となったポストクレジットシーンでは、ティ・チャラがワカンダ国の真実を世界に知らせる決意をする。舞台が国際連合であるのは、「アフリカの年」1960年の国連総会でのクワメ・エンクルマの言葉"But Africa does not seek vengeance. It is against her very nature to harbor malice. "を連想させる。この短いシーンでハッとしたのは、ブラックパンサーは本作で名もない民衆を直接助けるようなことをしなかった点だ。ヒーローが特別な力を使って民衆を助けるのは今もジャンルの定番だが、「持てる側」のティ・チャラは自分のフィジカルな力を「一時的に提供」するのではなく、誰にでも使える富と知識の「再分配」を選んだのである。『スター・ウォーズ/最後のジェダイ』でフォースの独占を否定したように、ディズニー傘下のマーベルの大転換だ...というのはやや大袈裟か。


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