牧師・沼田和也

牧師をしながら、日々あれこれ考えています。

牧師・沼田和也

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マガジン

  • 生きること、死ぬこと、そのむこう

    牧師として、人の生死や生きづらさの問題について、できるだけ無宗教の人とも分かちあえるようなエッセーを書いています。一度ご購入頂きますと、過去の記事、今後更新される記事の全てをご覧いただけるようになります。追加料金はございません。記事は200以上ありますので、ごゆっくりお楽しみください。

最近の記事

顔の記憶

印象に残る人といえば、印象に残る顔である。たいていは。ましてや、誰かを好きになってしまったら、その人の顔が記憶に焼きつく。たいていは。 ある人を好きになったことがある。その人のことを毎日、考えていた。たったいちど会っただけの一目ぼれではなく、日常的に歓談しているうち、好きになってしまったのだ。だから、とうぜんその人の姿はよく覚えていた。今でも鮮明に想いだすことができる。顔以外は。 こう書くと、その当時はその人の顔を鮮明に記憶していたが、むかしのことなので、今は顔を想いだせ

    • 立場をわきまえず語る

      このところ、自らの性的な欲望について語り続けている。書きたいことは今、それしかない。 ときおり同僚から言われる。「そんな欲望をひそかに抱えている牧師も、じつは多いのではないか」と。断っておくが、わたしは自分の性的な苦悩を普遍化したい意図はない。わたしにとって、わたしの性的な苦しみは「わたしの」それなのであり、「じつはアンタも同じように助平なんでしょう」と囁きたいのではない。じっさい、「この人にはたぶん性的な葛藤はないだろうな」と感じる同僚もいる。性的に達観している人、パート

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      • まなざしが手足を侵蝕する

        心の中でなにを想おうが自由である。イエスがよけいなことを言ったせいで、人は悩まなくてもよいような私的な領域にまで葛藤を持ち込まなくてはならなくなった────たしかに、そう言えなくもない。ムスリムの知人と話したことがある。出典は不明だが、彼は言っていた。イスラームの教えにおいては、他人の内面の、たとえば信仰や不信仰については詮索しない。行いにおいて、その教えを実践しているか否かのみが問題となる、と。彼の信仰で考えるならば、心のなかでどんな淫らなことを想っていようが、実際に行動に

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        • ギャラリーストーカーという言葉を知る。

          ギャラリーストーカーという言葉を知った。ギャラリー(画廊)や美術系の学校など、無料で作品を鑑賞できる会場に行き、在廊している若い女性作家にむやみに話しかけたり、連絡先を聞こうとしたりする男性のことを指すらしい。そしてその多くは40代以上の中年男性のようである。もともと美術関係に関心がない人であれば、そもそもギャラリーに行けば女性に会えるという発想がないだろう。したがって、ストーカー化してしまう男性のほとんどは、おそらく美術鑑賞を趣味にしている人であると思われる。 じつは、わ

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        • 生きること、死ぬこと、そのむこう
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          わたしのなかの偶像

          わたしには、恋愛対象とは思っていない人から言い寄られて心苦しく思ったり、気持ち悪く感じたりする人の気持ちは分からない。わたし自身が、そうやって意中ではない女性から言い寄られた経験がないからである。 しかし、想像することならできる。それはある苦い経験による。同業者、つまり牧師から執拗な嫌がらせの連絡を受けたことがあるからだ。わたしはその牧師と面識があった。わたしとしては、その人とは仲がよかったと思っている。お互いの仕事について語りあったり、いっしょにお酒を飲んだこともあったは

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          信仰にまつわる覚え書き

          わたしはこれまで、衰退しゆく一方の教会をどうやって盛り上げていくか、そのことばかり考えてきました。ちょうど、池口龍法師が、フリースタイルな僧侶たちという運動で、寺興しに懸命に取り組んできたことに通じます。わたしは無職の頃、彼のお寺に行ったこともあります。それは何かのイベントで、妻といっしょに行きました。さまざまな宗派のお坊さんや、一般の方も参加していました。一人ひとり、お寺の備品である木魚をお借りして、みんなでいっしょに「なんまいだー(南無阿弥陀仏)」と唱えながら、ひたすら木

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          窃視そして欲情

          教会に来た女性と、男性の欲望、というか、わたしの性的欲望の話をした。あらかじめお断りしておくが、わたしは彼女に猥談をもちかけたのではないし、ましてや性的な圧をかけたのでもない。これまでnoteに書いてきたような話を、ただ淡々としただけである。 わたしの話に対して、彼女はこういう意味のことを言った。 「やっぱり男性はたいへんですね。わたしにはそんな欲望はないなあ。それに、わたしの周りの女友達もみんな、推しを応援したり旅に出たり、趣味を満喫しています。恋愛の‟れ”の字も出てきま

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          健全な宗教内のカルト

          カルトの宗教と、そうでない宗教とのちがいは何だろう。いつもそれを考える。たとえば、カルトではない教団の内部に、カルトの施設「も」ある、ということはありうる。 こういうことだ。日本全国に散在する施設を取りまとめる、包括団体としての教団がある。世間ではその宗教イコールその教団とみなされている。だがじっさいに活動するのは教団そのものというより、その教団と被包括関係にある、それぞれの地域に存在する施設、つまりそこに通う信徒たちである。教団には定期的に、全国の各施設から信徒議員などの

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          隣人の欲望こそわたしの欲望

          それにしてもイエスの言葉の、なんと厳格で、実行の難しい言葉であろうか。独身の頃は、結婚すれば克服できると素朴に信じていた。だが、結婚したらしたで、妻以外の女性を、さらに情欲のまなざしで見るようになってしまった。 十戒は、以下のような言葉で結ばれている。 わたしはほんとうに、心から妻を愛しているのだろうかと自問する。だが、「心から」とは具体的にどのような態度をさすのだろう。そもそも愛とはフィクションで描かれるような、劇的なものであろうか。わたしにとって妻は同志のような存在と

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          聖書のストーカー

          中年男性の性について語ってきたが、性に悶え、悩み苦しむのは彼らだけではない。若い男性もそうである。彼らはニュースで報じられるような、地位ある立場からセクハラをすることはできない。だが、惚れ込んだ女性のことで思いつめるあまり、その女性につきまとい、暴力を振るってしまうことはある。ストーカー事件である。 ストーカーという言葉こそなかったが、はるかな昔から人類は、というよりも男性は、おのれの性欲に苦しみ、しばしば道を踏み外してきたようだ。じつは聖書にもストーカーはいる。じつに、紀

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          なぜセクハラをするのは若者よりおっさんなのか

          わたしは、セクシャルハラスメントを自分ごととして考えている。倫理的に潔白でありたいからではない。いかにも自分がやりそうで、そのことが怖いからである。わたしも50歳を過ぎた。人生の折り返しを過ぎて、白髪も増え、頭の毛も薄くなり、加齢を感じる。それなのに、性的欲望は若い頃よりも強い気がしてならない。だから、中高年男性が起こす性的不祥事を他人事とは思えないのである。 なぜ、性的な不祥事は「おっさん」に多いのか。もちろん暴行や窃視など、若者もする性犯罪は数多くある。しかしセクシャル

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          なぜセクハラをするのは若者よりおっさんなのか

          性のズレ

          今年、精神科病院における、看護師による患者への虐待が、内部告発により発覚した。そのときには『牧師、閉鎖病棟に入る。』冒頭に描いた出来事が頭をよぎった。告発の虐待映像には既視感があった。それとはまたちがう形であるが、ジャニー喜多川氏の性加害が世界的なレベルで問題になった折、わたしは、それはキリスト教の世界でも見聞きしてきたし、自分自身も綱渡りしていることではないか、『弱音をはく練習』で語ったことにもつながっているではないかと感じた。 フランス系カナダ人のカトリック信徒であった

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          プールサイドから、どぼん

          「あなたがたのうちの誰が、思い煩ったからといって、寿命を僅かでも延ばすことができようか。」マタイによる福音書6章27節 聖書協会共同訳 先日、この聖句を呟いたところ、「古代であっても人々は当時なりの手当てを懸命にしただろうし、『寿命などしょせん伸ばせやしない』と最初から諦めるなんて、いくらなんでも投げやりで、あまりにも上からの一方的な決めつけの感じがする」と、そういう趣旨の率直な感想をいただいた。わたしはその人の言葉に嫌悪を覚えるどころか、他ならぬわたし自身が長い年月格闘し

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          限界にぶつかったこと。イエスに再度「行け」と言われたこと。

          'イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 『わたしが

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          限界にぶつかったこと。イエスに再度「行け」と言われたこ…

          イエスは幼子を可愛らしく語ったのか

          'そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学

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          問いのなかで本を書く

          今回、本を出すことになった。 お世辞にも素晴らしいとは言い難い、むしろ深い傷痕が今でも疼く体験を、長い原稿にまとめるというのは、苦しい営みであった。書きながら、忘れていたこと、忘れていたかったことが、次々と鮮明に、今目の前で起こっているかのように想いだされて、「もう書くのやめたいな」と何度か思った。 しかも、矛盾するのだが、書いていて喜びも感じていた。「おっさんは自分語りをするのが好きだ」とはよく言われることではある。わたしも漏れなくその一人であるらしい。自分の過去を振り

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