誰と何を分かちあうか

さまざまな宗教的背景がある人たちの集まる宴会に行ってきた。こういう会合に行くと毎回実感することがある。自分とはまったく違う宗教に、意外にも自分と似たような心境で臨んでいる人がいることが面白く感じられるのである。

信仰している教義は、お互いはっきり言って何の関係もないくらい共通点を持たない。それくらい異なる宗教をそれぞれ信じている。ところが「どうやってその宗教に出会ったのか」とか、「今、どんな思いでその宗教内で活動しているか」というような話になると、これが一転、共通点が意外に多いのである。

その理由として、一つには、宗教が人間の集まりであるのはどこでも同じだということがある。人間が集まる以上、同じ宗教を信じていても考え方の違う人が出てくる。まったく均一な一枚岩には、カルト宗教でさえできないのである。げんにカルト宗教でさえ分裂などの噂話をしばしば聞く。まして、あるていど社会的な信頼も受けている数十年以上の歴史を持つ新宗教、あるいは数千年の歴史を持つ伝統宗教ともなれば、なおさらその内部構成は多様でばらばらになってくる。むしろばらばらであることのほうが自然である。そういうばらばらな人たちが、たとえ衝突を起こしても、それでも同じ信仰を模索しながら一致してやっていこうとする。その営み自体は宗教が違っても「ああ、おたくもなんですね、うちもですよ」と言いあえるものがある。

それともう一つ。人が何らかの宗教に入信するにあたっては、必ずしも教義からとは限らないということが挙げられるだろう。孤独だったから。生きる意味を問うたから。超越的なものと出遭った/出会いたかったから。そういう文脈は、どの宗教を信じる/信じようとしている人にもしばしば見られることである。一方で、とくに宗教を信じるつもりはなかったのだが、とても親切にしてくれた人が、たまたまその宗教の信者であったというようなケースもある。ここの宗教団体の人たちはわたしの話をまじめに聴いてくれる、具体的に助けの手を差し伸べてくれる、慰めてくれる等々。教義ではなく、むしろ具体的な人間の顔をとおして、神なり仏なりがその気配を表す。それでその人はその宗教に入信し、あとから教義について学び始める。そういう仕方もまた、どこの宗教でも起こりうることだ。

もちろん、それとは違う仕方でお互い話が通じることもある。学究肌で、個人的に諸宗教の教義を学んでいたところ、ある宗教に自分なりの真理を見いだし、強く惹かれていく。惹かれた先はそれぞれ違う宗教であったとしても、諸宗教の教義に興味を持ち、自覚的に学んだという、その探求心自体は共有できるものである。

異なる宗教の信仰を持つ人たちと語りあうとき、「どこの宗教も同じですね」とか「名前は違っても、けっきょく同じ神を信じているんですね」というような仕方では、わたしは相手と一致もしないし、分かりあうこともない。お互いはっきりと、譲れない別々の真理へ向かって進んでいるのだと、少なくともわたしは信じている。だが、たとえ進む先は別であったとしても、進みかたが似ているということはあるのだ。その似ているところを語りあうのが面白いのである。また、開祖なり宗祖なりが最初に説いた教えが、次第に教義化されて教団として整えられてゆくプロセスについては、人間がやることである以上、宗教が違っても驚くほど似ていることも実際にあるのだ。

わたしはこれからも、自分の信仰をきわめてゆこうと思う。わたしはわたしの信仰以外にあり得ないと排他的に信じている。だからこそ、自分とは異なる信仰を持つ他者に深い敬意を持ち、「おお、あなたもそうでしたか」と、ゆたかな交わりを持ち続けてゆきたい。

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