ごまかしても成り立つ対話が存在する

わたしが洗礼を受けたのは高校生のときだった。ある日、わたしは信徒の方に、わたしの家にある仏壇について質問した。また、自分がお地蔵さんに愛着を感じていることも話した。するとその方はこう言った。

「それはサタンの偶像です。」

わたしはその方の即答に戸惑い、また自分の過去が否定されたような気がした。これがわたしにとっての「他宗教とは何だろう?」という、問いの始まりだった。

やがてわたしは、次のような考え方に至った。すなわち、山登りのルートはさまざまにあるが、頂上は一つしかない。じつは他の宗教も自分の信じるキリスト教も、目指す頂上は同じなんだと。わたしはその考え方にすがりついた。というのも、家族ではわたし以外、誰もキリスト教徒ではなかったからである。もしもキリスト教徒以外は全員地獄に堕ちるしかないのだとしたら、わたしのお父さんやお母さんは────考えるのも怖かったし、不愉快だった。

山は一つ、登山ルートはたくさん。この考え方を、わたしは神学生の頃もなお維持していた。神学部ではミシオ・デイという概念を習った。「神の宣教」という意味のラテン語である。かつては「教会の外に救い無し」というのがキリスト教の理解であった。しかしそうではないのだと。神は世界のすみずみにまで祝福で満たしているのであり、そのことを確認するのが教会なのだと。また、「無名のキリスト者」という概念も習った。すなわち、世界中の異教徒たちは、じつは本人も気づいていないがキリスト教徒なのだと。すでにキリストによって救われているのだと。

だが牧師になってみて、実際に他の宗教の方々と接するようになると、それまでとは違うことを感じるようになった。世界がキリスト教の神によってすでに祝福されているとか、異教徒はじつはキリストによって救われているのだとか、それらは、わたしが安心するための自己満足でしかないのではないかと。教徒の方々からすれば、それは余計なお世話以外の何なのかと。わたしが心のなかで何を信じ、何を実際に行為しようが、わたしとはまったく異なる信仰や行為をする人々が、わたしの眼前には無数にいるではないかと。

ここから先は

1,688字
この記事のみ ¥ 300

記事に共感していただけたら、献金をよろしくお願い申し上げます。教会に来る相談者の方への応対など、活動に用いさせていただきます。