怒りが美味しく発酵する

だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。ヨハネによる福音書 20:23 新共同訳

先日、テレビでディズニーの2015年版『シンデレラ』を観ていた。大雑把なストーリーはたぶん誰でも知っているような、あのシンデレラの話である。ただ、わたしは終盤のある一場面に目を見張った。見事だと思ったのだ。

シンデレラがガラスの靴の持ち主だと分かり、王子が彼女を連れていく。振り返ると、彼女をさんざん虐待したトレメイン夫人(いわゆる「継母」)が独り階段に立ってこちらを見ている。シンデレラは彼女を見つめる。そして絞り出すように言い放つのだ。「あなたを赦します(I forgive you.)」。そして彼女は少し微笑み、王子と去っていく。

最初に聖書の言葉を引用した。「赦す」と「赦さない」が出てくる。日本語だと赦すも赦さないも、どちらも「赦す」という動詞を活用している。しかしギリシャ語においては事情が異なる。「赦す」はἀφίημιであり、「赦さない」は κρατέωである。動詞が違うのだ。つまり赦すのと赦さないのとは、そもそもまったく異なる事態を表しており、等価な二つの選択肢からどちらかを選ぶというものではない。どういうことか。

「赦す」ἀφίημιはlet goである。let goの目的語がhim(彼)だったりher(彼女)だったり、人間でないこと(つらい記憶など)ならitだろう。読者の皆さんは数年前、let it goというフレーズが大流行したのを覚えてはおられないだろうか。レリゴーというあれである。「ありのままに」という意味ももちろんあるだろうが、いろいろなことを「手放す」という意味合いが、そこにはある。『アナと雪の女王』においてエルサは、これまでの自分のこだわりを手放す宣言を、あの歌でしているのだ。そして手放す対象が物事ではなく人であるとき、その人を手放すことが「赦す」ことなのである。

一方で「赦さない」κρατέωはどうか。こちらは、強い力で対象を捕まえて離さないことである。もともとは「強い力を持っている」という意味があったそうだ。しかし、もしも強い力を持っていない弱い人が、それでも強い力で対象を捉え続けなければならないのだとしたら。それは大変な消耗を伴うことだろう。誰かを赦さないこと、あるいは、つらい記憶にいつまでもこだわり続けることは、よほど強靭な精神力がない限り疲れ果てることなのである。

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