宗教のハードルは高いものだ

「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。 そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。」 ルカによる福音書 11:24-26
新共同訳

「教会に行ったら~だと思っていたのに、がっかりした。傷ついた。二度と行かない」という趣旨のツイートをよく見かける。その人なりの勇気を振り絞って教会に行ったのに、そこで与えられると期待したものがじつに粗末であったら、どんなに悲しいか。粗末なだけなら幻滅で済むが、牧師から、あるいは信徒から(無自覚に)心無い言葉をかけられたら。教会なら安心だと思って出かけて行ったその人は、むしろ二重三重に傷を受けることになる。わたしも、そのようなことが起こらぬよう注意をしてはいるが、やはり過ちを犯してしまうこともある。

一方で、教会もやはり人間の集まる社会的集団であることは、学校や会社と同じである。学校や会社と異なるのは、その集団のメンバーには生きている人だけではなく、すでに亡くなった人も含まれるということだろうか。とはいえ、ふだんの教会でのやりとりは生きている人たちとするわけであるから、そこは人間社会である。天国ではなく地上の、限界を持った社会である。どんなに優しい人でも、いやむしろその人の究極に優しさを込めた言葉や行為さえもが、誰かを傷つけてしまうこともある。こればっかりは根絶することはできない。欠点がある人間同士が出会うのだから、どうしてもそういうことは起こる。

冒頭のイエスの言葉は、言ってみれば悪魔祓いにまつわる話である。悪魔祓いをしたら、悪魔が意外とすんなり出ていったようだ。祓われたその人の調子も良好。心も素直に、安らいでいる様子が見られる。「もうだいじょうぶ。再発はしない」と油断さえしている。
まさにその隙に悪魔は七つの仲間を引き連れて、その人へと戻ってきてしまう。悪魔のパワー倍増、いや七つ加えて八倍増。状態はさらに悪化してしまうというわけである。

汚れた霊だのなんだの言われても、多くの人は現実味を感じないかもしれない。しかしこれを教会の現実だと考えると、イエスのまなざしはじつに具体的な射程を捉えていると思う。汚れた霊をなんらかの悩みごとに置き換えてみればいい。教会に来て、牧師に悩みを相談して、祈ってもらって癒された。信徒の方々からも笑顔で歓迎された。まるで天国のようだ!幸せでいっぱいだ....まさにそう思い始めた矢先にこそ、予想もしなかったトラブルがその人を襲うのである。そこが期待していた教会であったがゆえに、そしてげんにある程度幸福感も味わえていただけに、その人の幻滅具合は以前より何倍も酷くなる。

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