預言者的に生きる──他人を不快にする表現について

ノストラダムスの大予言』というのが子どもの頃、なんとなくオカルトで流行っていた。もっとも、流行っているとは言っても、わたしも友人たちも子どもだったので、その元ネタの本自体は読んだことがなかった。流行っていたというより、文化的前提だったというほうが正しいかもしれない。

ところで聖書には預言者が預言を語る場面がしばしば登場する。ちなみに日本語訳では「神から預けられた言葉」という意味で言と書くが、預言だろうが言だろうが英語であればProphecyで同じである。預言の内容も人々が過去に犯してきた罪の告発以外は、これからどうなってゆくのかという意味で未来の予言である。裁きや滅亡の暗澹たる未来を語る場合もあるし、神との新しい契約を語る希望に満ちた言葉もある。

あたりまえだが、預言者はその時代の言葉を使って預言をする。だから今日の観点からいえば差別的だったり、ちょっとついていけないような内容もある。だがそれだけではない。今日の我々にとってだけでなく当時の人々の多くにとっても、預言者の言葉はしばしば受け入れがたく、不快に響いたのであった。

ここが肝心なところだ。預言者の言葉を支持する人がゼロだったら、その言葉は独り言で終わり、後代に残ることはない。つまり多くの人に不快がられ拒絶された言葉が、一部の人々には確実に突き刺さったのだということである。預言者の言葉に対して不快を訴え拒絶する人々が続出する一方「これは自分たちへ向けて語られた言葉だ」と痛感した人々もいたのだ。

こうして預言者の言葉を「自分への言葉」と受け取った人々のうち、ある者は預言者の弟子となり、またある者は預言者が預言活動に専念できるよう生活や金銭をサポートした。そして何より重要なことだが、彼ら支持者たちは預言者が語る言葉を筆記したり、その写本を作成したりしたのである。これが後代に遺されたからこそ、我々もその日本語訳を読むことができるのだ。

迫害や無視のなかで語り続けた預言者。その言葉は多くの人々から不快がられ拒絶されたが、一部の人々には突き刺さった。そういう来歴と相俟って言葉の希少性は増していき、後代になるほどますます大切に伝えられていった。預言は自明のこととして広く受け入れられてしまえば、預言として成立しない。さりとて誰からも全く受け入れられなければ、預言ではなく独り言として消滅する。その絶妙なあい間の魅力を、預言者の言葉は持っているのである。

預言者は神に祈り、人々と向きあい、しかし人々の求めるものに応えるだけでなく人々の求めを超えたものを語り、実践した。現代だからこそこうした預言者の生き方に学ぶことができないだろうかと、わたしは思っている。

たしかに、預言者が語った特異な言葉や迫害にも負けぬ行動を、我々が真似することは不可能に近い。わたし個人も、できるだけ周りの空気を読んでトラブルを起こさず、静かに生きてゆきたいと思っている。だが、空気を読んで生きつつ「空気を読んで生きているのだ」という自覚を持つことなら、わたしにもできる。

そしてこれも大切なことだが、空気を読むことは万能ではない。「空気を読んでいる」という自覚のなかで発した自分の言葉が、他人を傷つけることもあれば喜ばれることもあるのがふつうである。自分を取り囲む空気の自覚と、自分がその空気を読んでいることの自覚。そこで発する自分の言葉が、ある人には不快がられ、ある人には届くことの自覚。じつにささやかではあるが、これは預言者的自覚だとは言えないだろうか。

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