それは「飴ちゃんあげよ」でもよかったのかもしれない

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。(マルコによる福音書 1:16-18 新共同訳)

この箇所を読むたびに、いつも考える。イエスと最初に出遭った、いわゆる使徒たちは、どうしてイエスについていったんだろう。漁師なだけに「人間をとる漁師にしよう」という謎めいた言葉に魅力を感じたのか。魚が網で一気に掬われるイメージと、人間が神によって一気に救われるイメージとが、しっくり重なったのか。

しかし、こうも想う。なんだったらイエスが「ほら、飴ちゃんあげよ」と言っても、彼らはついていったんじゃないだろうかと。言葉は最後の決めぜりふなんであって、それ以前に彼らはすっかりイエスに惚れこんでしまっていたんじゃないだろうかと。イエスの雰囲気とか、声とか、しぐさとか、出遭ったときの天気とか。それ自体は言葉にはできない、そういう諸々の総体によって、彼らはイエスのとりこになったんじゃないだろうかと。

さらに言うなら、イエスに出遭うまでのシモン(後のペトロ)たちの日々の悩み。それは個人的なことも社会への憤りも含めた、多岐にわたることだっただろう。また、彼らのあいだでは「いつか救世主が」という期待もあったはずだ。その場でイエスの醸した雰囲気は、彼らのニーズにドンピシャだったのかもしれない。言い換えれば、他のタイミング、他の場所でイエスと対面したとしても、これほどの印象は残らなかったかもしれない。出遭いは起こらず、彼らはイエスについていくこともなかったのではないか。そしてこういうことは、じつは古代に限ったことではないし、宗教だけの話でもない。

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