これだと思うとき

信仰するというときに、大きく言って二つのありようがあると思う。一つは独り穴を掘り進めるように、信仰の道を探求する生き方。もう一つは、誰かとの交流のなかで信仰を深めてゆく方法である。もちろん両者は完全に二つに割れているというのではない。孤高に信仰を探求する人が、しばしば他の誰かにとって道しるべになることがある。逆に、孤独に探求していた人が、思いがけず他者の信仰に胸打たれることもある。

ところで、わたしはその二つのうちの、「誰かとの交流」のほうにアクセントを置いて牧師の仕事をしてきた。というのも、とくに今の教会に赴任してから、わたしのもとへ相談に来る人が後を絶たないからである。なかにはキリスト教ではない、他宗教を信仰する人もいる。自覚的にその宗教に帰依し、その教えに人生すべてを賭けている人。そういう人が、なぜわたしのところへ相談に来るのか。それは、宗教によっては他人との交流、とくに悩み相談的な側面がもともと薄い場合があるからなのだ。決してその宗教が劣っているという意味ではない。その宗教の成立過程や歴史のなかで、信仰者の細々とした悩み相談に答えるという要素をとくに必要としてこなかった、ということである。

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