頼る作法を知らないと、苦しくなる

また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。 コリントの信徒への手紙二 12:7-10 新共同訳

上記の聖書の言葉は、パウロという伝道者の手紙に書いてある、彼自身についての証言である。パウロはかつて、キリスト教徒たちを殺してまわることに加担していた。しかしあるときぶっ倒れて神の声を聴き、キリスト教に回心したという。彼はそのとき数日間失明していたので、彼の身にサタンから送られた「とげ」というのは眼病だったのではないかという説がある。あるいはぶっ倒れたときの様子から、ひょっとすると彼はてんかんの発作を持っていたのではないかとも言われている。これについては、ドストエフスキーが自らのてんかん発作を神秘体験として叙述しているところからも納得できるものがある。てんかんが起こる直前にドストエフスキーは、独特の恍惚的な状態になったという。そして、その直後に突き落されるような苦しみに襲われたというのである。彼の発作体験はその作品『白痴』などに活きている。

いずれにせよパウロにとってそれは「弱さ」と認識される苦痛だった。肉体的な不安だけではないだろう。発作が激しい苦痛を伴うものであったとしたら、いつ発作が起こるかという常時の不安でもあっただろう。さらには、彼はプライドも髙かったかもしれない。彼はもともとユダヤ教の巨匠、ガマリエルの弟子であったそうだ。回心したからといって、過去のプライドすべてを棄てられたわけでもないだろう。自分が他人の前でのたうちまわって苦しむ姿を見せてしまうことは、彼にとっては屈辱的であったかもしれない。彼が三度祈ったというのが、長い年月にわたって合計三回祈ったという意味なのか、長年さんざん我慢し続けた挙句、ついに三回連続で熱心に祈ったという意味なのか。いずれにしても、信仰熱心な彼であってもすべてに満足していたのではなく、彼なりに受け入れがたく耐え難い「とげ」に苦められていたということである。

彼は「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という神の声を聴いた。それは音声としての神秘体験だったかもしれないが、「そのように納得できる境地になった」という意味かもしれない。そしてそこに至るには、長い時間を必要としたことだろう。彼が自分の口から「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」とまで言うようになるには、そうとうな時間を必要としたに違いない。

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