時の加速と時が止まる場所

先日、『ミクロの決死圏』(1966年)という映画を録画して観た。子どもの頃にテレビでやっているのを観て、わくわくしたからであった。ところがである。録画したものを今あらためて観直してみると、あまりのスローテンポにあくびが出そうであった。早送りしたいのをこらえるのに苦労した。

原子力潜水艇を特殊な技術で乗組員ごとマイクロ化し、患者の動脈に送り込む。そして患者の脳血栓を体内からレーザー光線で除去するというのがストーリーの大筋である。ところが、いざ本編が始まっても、なかなか人体に入るシーンにならない。入ったら入ったで、なかなか脳に辿り着かない。途中でいくつかの危機が訪れるのだが、それもなんだか、のどかでさえある。

最初にも書いたが、わたしはこれを子ども時代に観たときには、まちがいなくハラハラドキドキしたのだ。子どものわたしが間延びしているなどと思ったはずがない。子どもほど退屈に敏感な存在はないだろう。幼稚園か小学校低学年程度のわたしが、まさか「これは芸術性の高い映画なのだ。芸術的な映画はストーリーも俗っぽくはないのだ」と意識高げに(冗長さを我慢して)鑑賞したとは思えない。

考えられることは一つしかなかった。つまり、この映画が上映された1966年当時の人たちにとっては、これがハラハラドキドキするのにじゅうぶんなスピード感だったということである。わたしがテレビで観たのは70年代後半だ。しかし70年代当時の子どもであっても、これをスリルの連続、あっという間に観終わったと感じることに問題はなかったのだろう。

一方で、今のわたしや、そしておそらく今の子どもたちが体に感じている時間感覚は、1960年代や70年代のそれとはぜんぜん違うのだ。小津安二郎監督による1953年の映画『東京物語』は、たしかに戦後の観客にとってもすでにゆったりとした空気を湛えていたことだろうが、それでも我々が感じるほどではなかっただろう。山田洋次監督が2013年に『東京家族』というタイトルで、台詞回しもほぼそのままに時代設定のみ現代に移して製作していたが、『東京物語』に忠実であるがゆえに違和感も大きかった。「ゆっくり」であることの作為性が目立ってしまったのだ。1950年代の人ならそれほどおかしいとは思わなかったスピード感が、2010年代の我々には明らかに遅い。『東京家族』が小津安二郎へのオマージュとして優れているからこそ、60年という時代の隔たりがくっきり浮かび上がる。それは60年を経た時間感覚の変化を味わうという意味で、面白い鑑賞体験であった。

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