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空をみあげるきっかけ

コツコツとパンプスの音が響く、仕事帰りの夜道。
今夜は十五夜だったことを思い出し、月を探しに足をとめ、夜空を見上げた。
あいにくの曇り空だったが、月明りに空は明るく、雲は美しかった。
裏側から月光に照らされて、光を帯びた雲の群れは、暗い夜に明かりを灯すように空一面を優しく覆っている。
ゆっくりと流れる雲の合間から、時折月が顔を出し、周りの雲に光の輪を映してはまた身を隠し、むら雲がぼうっと光を孕む。
秋の空は、なんだか優しかった。
主張しすぎない明るさが心地良くて、心がじんわりとほぐれた。

そういえば去年の冬も、帰り道の夜空に救われたことがあった。
寒さに身をすくめ、イヤホンを忘れて音楽が聴けないことにイライラしながら、駅から家までの住宅街を足早に歩いていた。
幼い少年とお母さんが前を歩いていて、追い抜こうとしたときだ。
電車が高架を走った。
少年がつられて顔をあげた。
「オリオン座!」
鈴のように澄んだ可愛い声が、冬空につきぬけた。
「オリオン座!オリオン座!」
少年があまりに興奮して叫ぶので、私もつられて夜空を見上げた。
寒空は驚くほど澄んで、美しいオリオン座が真上にあった。
ああ、夜空なんて。
空なんて、ほんとうに、久しぶりに見た。
そう思ったら、忙殺されて凍っていた心が動き出して、半ば泣きながら家路についたのを覚えている。
そのとき以来、駅から家までの道はイヤホンを外して歩くようになった。

大きくなって空に近づくはずなのに、私たちは大人になると空をあまり見上げなくなる。
きっと、しなければならないことが増えれば増えるほど、無駄なものは省き、余分なものは見ないようにすることに長けてくるからだ。
そうやって、くだらないことで笑わなくなり、つまらないことで泣かなくなり、立ち止まって顔を上げることもしなくなる。
だからこそ、私たちにはきっかけが必要なのだと思う。
空をみあげるきっかけ。
自分の小ささを知り、美しい空の下に生きていることを知り、心をほぐすきっかけが。

今宵は十五夜。良い月が見えますように。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。