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文章を書く人の心得:身を削る、実をつける

ずっと長編小説ばかり趣味で書いていた私が、ここ最近、ブログを始め、noteを始め、物語以外にも小出しに文を書くようになってから、気付いたことがある。
それは、文を書くことって、何だか、身を削っているみたいだということ。
ちょっと語弊があるが、身を粉にして書いているとかそういう話ではなくて、ことばにして何かを発信するということは、自分自身をちょっとずつ削り取って、文字に加工して並べているような感じがするのだ。
「身を削る」というと苦しそうなので、「実を収穫する」といってもいいかもしれない。

これは、長編小説を自分の中だけで書きためていたときには、気づかなかったことだった。
もちろん、小説を書く場合でも、確かに自分のなかにあるものを元にして形を変えて物語にするわけだから、自分を削り取っていくという点では同じかもしれない。
でも、小説なら、架空の登場人物が婉曲的に肩代わりしてくれるので、生肌のままの自分をさらけださなくてもいいし、なにしろ長編はかなりの時間をかけて作るものだから、それほど頻繁に収穫作業をする必要がなかった。
収穫した実を少しずつ貯めておいて、熟成させ、発酵してからようやく小説というかたちにして出す。そういう感覚に近いような気がする。

でも、ブログやnoteで、「自分の考えを発信する」という直接的な文章を書くようになってから、この「身を削る」あるいは「実を収穫する」ということが敏感に感じられるようになってきた。
機が熟すまで表には出てこない小説と違って、これらはいわば新鮮な生の果実のようなもの。
小説よりも鮮度が問われるし、良いものが実ったら、タイミングを逃さないように的確に収穫していかなければならない。
つまり、「実り続ける」というある種のプレッシャーを、小説よりも短く細切れに体験するようになった。

日々浮かんでくる考えや、表現したいと思える何かが「実」だとするなら、「葉」はその実を育てるための手段、「幹」はさらにコアなところにある自分そのもの。
いわば「葉」は裏方のようなものだから、それを表に出してしまっては、ちょっと見苦しかったり、制作過程の中途半端なものだったり、完成度が低いものになってしまうかもしれない。
さらに「幹」にまで手を出して無理やり文章にしてしまうと、それは今度は文字通り、身を削ることになり、大事に守って育てていくべき自分自身の核さえも差し出してしまうことになりかねない。こうなると、外への発信が、外からの搾取に変わってしまう。これは想像を絶する苦しさだと思う。

水やりを怠って実りが減れば、楽しかったはずの文章を書くということが苦行に変わってしまう。
だからこそ、日頃からたくさん実をつける。
書かなければという気持ちばかりが先立って、実りが追いつかず、葉をむしりはじめ、幹を削りはじめたりしないように。
そのことの大切さをひしひしと感じている。

最後まで読んでくださってありがとうございます。 わずかでも、誰かの心の底に届くものが書けたらいいなあと願いつつ、プロを目指して日々精進中の作家の卵です。 もしも価値のある読み物だと感じたら、大変励みになりますので、ご支援の程よろしくお願い致します。