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行き倒れのように

朝、目覚めてみると、何かしらの不安が、自分のどこかを覆っているように感じた。

最近の、普通の人が看取られもしないで、あちこちで行き倒れのように事切れる事件を見聞きするにつれ、いや、私自身は経験してもいないのだが、あまりの事態に怒りや絶望を横に置いても、哀悼の意を表したいと思うようになった。

神道でいえば、お祓いしたい、という気持ちに近いかもしれない。そう言えば、この喪失感はただならないものがある。お盆もお正月も、年末年始も、みんな消滅し、親戚との会食も、友人とのランチも、忘年会も送別会も壮行会も歓迎会も、誕生会も祝賀会も、葬式も結婚式も、いっぺんに蒸発してしまったのだから。

毎日なにかしら働いて、ご飯を美味しくいただいて、本屋へ行ったり美術館で刺激を受けたり、素敵なファッションを見て歩いたり、そんなことが、出来たことさえ、今となっては夢のように感じられる。

この一、二年に失った計り知れないものの中でも、特に「心のゆとり」というか「心のあそび」の部分というか、そういうものがなくなって、かわりに黒い雲のようなものが、私の生きる力を弱らせてくる。


今度河原に散歩に行ったら、小さなジャムの空き瓶を持っていって、川砂を入れて帰ろう。途中のコンビニで、100円ライターと線香を一束買って、帰ったら一本引き抜き、火をともして立てようと思った。

午前五時半、起き出して外へ出ると、河原はすっぽりと濡れていて、私の背丈ほど伸びてきたススキの葉先に、水滴が涙のように光っていた。

砂をもらうのはまたにしよう。天気のいい乾いた日に、修行僧のように一本の線香が燃え尽きるまで、この世に未練を残して力尽きた患者や医療者を、その時ひととき慰霊したいと思う。



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