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洗礼者ヨハネと弟子たち【ルカ7:18-23】【やさしい聖書のお話】

2023年1月29日の聖書のお話です。

ヨハネ、弟子たちをイエスのもとへ

今日は久しぶりに洗礼者ヨハネが登場します。

ヨハネは、ガリラヤ地方を治めていた「領主ヘロデ」につかまっていました。このヘロデは、イエス様が生まれたときの「ヘロデ大王」の息子のひとり、ヘロデ・アンティパスです。

ヨハネがヘロデにつかまったあとも、ヨハネには何人も弟子がいました。弟子たちは、イエス先生がしていることをすべてヨハネ先生に知らせていました。
するとある日、ヨハネは二人の弟子をイエス先生のところに行かせて、こう質問させたんだ。
「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」

ヨハネ、ブレたのか?

洗礼者ヨハネは、イエス先生こそ来たるべき救い主だということを知っていた。ヨハネによる福音書の1章で、洗礼者ヨハネはイエス様を「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証言し、自分が予告していた「来たるべき方」はこの人だと人々に告げている(ヨハネ福音書1:29-37)。

じゃあなぜヨハネは、弟子たちをイエス様のところに行かせて質問させたのだろう、ということは多くの聖書読者を悩ませてきたらしい。

たとえば「これは疑問形ではない。ヨハネは『あなたこそ、おいでになるはずの方です。私たちはほかの誰を待っているでしょうか』と訳すのが正しいんだ」という説もあります(新聖書注解 新約1)
でもほとんどの聖書は疑問文として訳しているので、たぶん元のギリシャ語も疑問文に訳せる文章なのでしょう。
だとしたら、ヨハネのこの疑問はどういうことなのか?

ヨハネは「イエスこそ救い主」という確信がぐらついていたんじゃないか、という読み方もあります。
たとえば聖書教育では、こういうふうに説明している。

ヨハネが期待していたメシア出現のイメージは、政治的な色彩さえまとった人物が、民全体の前に威厳をもって登場する様子だったかもしれません。

日本バプテスト連盟『聖書教育』2023年1,2,3月号

つまり、この世を政治的に支配する偉い王様としてメシア、救い主が登場するとヨハネは思っていたのに、イエス様は病人を治したり、貧しい人に福音を告げ知らせたりしている。彼は「思ってたのと違う!」ってなったのだろう、という解釈です。
確かに、当時の民衆はそう思って、イエスにがっかりしていった。ていうか、12弟子たちもそういうところがあった。

でもこれは無い。もしヨハネがブレていたのなら、イエス様がヨハネを「女から生まれた者のうち、ヨハネより偉大なものはいない」なんて言うだろうか?(ルカ7:28)
そして聖書は、ヨハネが死のまぎわにもイエス様のことを確信していたと証言しているんだ(使徒13:25)

だいたい、ヨハネが「救い主が来ることを知らせる者」だというのは、イザヤ書が預言したいたことなんだ。
そしてイエス様は、そのイザヤ書が預言していたとおりの「来たるべき方」の姿だ。
だからヨハネにとって今のイエス様は「思ってたのと違う」じゃなくて「思ってた通り」だったはずなんだ。ヨハネが「イエス先生はイザヤが預言していた救い主なのか?」と疑ったのだとしたら、その前に「私はイザヤ書が預言していた者なのか?」を疑っただろうね。

ヨハネが弟子たちを送った意図とは

ヨハネは疑問に思ってなかったとしたら、ヨハネは「この質問でイエス先生はどう答えるか」なんてわかっていたことになる。
だとしたら、弟子たちを行かせてイエス様に質問させた理由は、「イエス先生の答えをヨハネが聞きたかったから」ではなくて、「ヨハネの弟子たちにイエス先生から答えてやってほしかったから」じゃないかな。

つまり、ヨハネは「イエス様こそ、来たるべき方だ」と信じていた。まったく疑問を持っていなかった。けれどヨハネの弟子たちはそうじゃなかった。ヨハネは自分の弟子に「あの方こそ、お前たちが待っていた『来たるべき方』なのだ」と教えていた。そう言われてイエス様の弟子になった人たちもいた。アンデレはその一人だったことが聖書に書いてあるし(ヨハネ福音書1:40)、たぶんシモン・ペトロもそうだ(同1:41)。聖書からははっきりしないけれど、アンデレとペトロの仲間だったと思われるヤコブとヨハネの兄弟も、洗礼者ヨハネの弟子だったかもしれない。
なのに今もヨハネの弟子のままの人たちがいるというのは、彼らは「それでも私は最後までヨハネ先生の弟子ですっ!」だったんじゃないだろうか。

それでヨハネは「もう救い主イエス様ご本人から言ってもらおう」と思って、弟子たちにイエス様へ質問させたんじゃないかって思うんだ。

だって、ヨハネの弟子たちがイエス様に「あなたが救い主ですか」と質問したあと、イエス様がヨハネの弟子に「あなたたちが見ているとおりだよ」と答えたことは書いてあるけれど、そのあとヨハネが弟子たちから聞いたかどうか、聞いてどう思ったのか、何を言ったのか、どうしたのか、一切書かれてないんだよ。

最初に「ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた」と書いてあるのはどういうことだろう。弟子たちは「あのイエスというのはとんでもないやつです」てヨハネ先生にご注進してた?
ヨハネが弟子たちに「イエスがすることをすべて知らせてくれ」と指示していたのだとしたら、それは何のためだろう。ヨハネの意図は「イエスから目を離さないでいなさい」だったんじゃないかなら。
イエス様が、ヨハネの弟子たちがいつも来ていたことに気付いていたのなら、彼らへのイエス様の答えは「そのヨハネの質問については、あなたたちが見聞きしたすべてが答えだ」ということになってくる。

これはヨハネがイエス様に質問したエピソードじゃないんだ。
ヨハネの弟子たちがイエス様から教えられたエピソードなんだ。
だから、ヨハネの弟子たちがイエス様から答えを聞いたところまでしか書いてなくて、彼らがヨハネのところに帰ってどうなったかは書かれる必要がなかった。
もしかしたらヨハネは、イエス先生のところに行かせた弟子たちがそのままイエス様の弟子になったらいいと思ってたかもしれない。自分の弟子だったアンデレをイエス先生のもとへ送り出した時のように。

愛しているのに悲しませる

ヨハネの弟子だったら、ヨハネ先生から「イエス先生が救い主だ」と言われたらそれに従うはずだと思うかもしれない。
でも人間て、愛するからこそ、悲しませることをしてしまうこともあるんだよね。

今では少なくなったけど、ぼくが子供の頃は、学校の先生が「お前らのためだ」といって生徒を殴るのは普通にあったんだ。そういう先生のほうが生徒を愛しているよい先生だって評価されたくらいだ。愛してるから体罰するんだという時代、愛だといえば体罰がゆるされる時代だった。
さすがに今では、学校では体罰は厳禁になってるけど、家庭では今でも体罰がある。「しつけだ」と言い訳して暴力をふるうのは論外だけど、中には「子供を愛しているのに、愛し方がわからなくて結果的に虐待してしまう」という悲しい事件もある。

約80年前に日本が戦争をしたときの話をしよう。
昭和天皇がなんとか戦争を避けようと努力なさったことは、たくさんの証拠や証言が残っている。でも国民が「天皇のために」と言って戦争へと進んでいったんだ。
だから日本キリスト教協議会も、以前は「天皇の戦争責任」と言っていたけど、証拠が多すぎて「天皇に責任があった」と言い続けるのが無理になってくると、しれっと「天皇の名による戦争責任」という言い方に変更した。
「天皇のために」で行われた戦争の責任は天皇にあるという言い方だ(でもこれを言い出すと、キリストの名をかかげて行われた十字軍や侵略や植民地支配などの責任はキリストにあるということになるような?)

天皇は戦争を避けたかった。
今の昭和憲法と違って、明治憲法では天皇が総理大臣を指名して内閣を組織させてたから、政府も戦争を避けるために努力していた。
それで政府が、戦争を遠ざけるために「各国が保有できる戦艦の数」を制限しようという約束を外国と結んだ(ロンドン海軍軍縮条約)。
国民と新聞が「統帥権干犯(とうすいけんかんぱん)だ!」と政府を非難したんだ。「軍隊は天皇のものなのに、政府が勝手に戦艦の数を減らす約束をしてきたのはアウトだ」という意味だ。当時は子供たちのあいだでも「とーすいけんかんぱーん!」が流行したというくらい、国民が「天皇の軍事権を侵害した政府はけしからん」と考えてたんだ。
そんなだから、政府が戦争を避けるための話し合いでちょっとでも外国の意見を聞き入れると、国民が「弱腰だ(びびってんじゃねえよ)」と政府攻撃した。
「天皇のため」と言いながら昭和天皇が望まない戦争を、「日本のため」と言いながら日本のためにならない戦争を、国民が求めてそこに進んでいったんだ。それを(軍ではなく)新聞があおっていったことも証拠がたくさん残っている(軍の中でも戦争をしたい人たちは喜んでいただろうけど)

教会とクリスチャンの歴史からも目をそむけるわけにいかない。
十字軍は「神がそれを望んでおられる」と言って、キリスト教徒がイスラム教の国を攻撃した。エルサレムを取り返すと言いながら、ユダヤ人を攻撃した。第4回十字軍は、キリスト教の国を侵略するための十字軍だった。
「救い主を知らない野蛮な民族をキリスト教徒にしてあげるのが正しいんだ」と言って、ヨーロッパから世界に出て行って征服し、植民地にしてキリスト教を強制した。
こんなことをイエス様が、神様が、喜ぶわけないよね。でも「愛する神様のため、愛するイエス様のため」といってこういうことをやってきたのが教会の歴史でありクリスチャンたちの現実なんだ。

じゃあ現代のクリスチャンたちは大丈夫かというと。
「イエス様を伝えるという『良いこと』のためだから」といって、著作権を無視するクリスチャンたちがいる。教会学校の案内にアンパ〇マンやミッ〇ーマウスの絵を描いたり。賛美チームの練習のために、CDをコピーして配ったり。こうしたことを無許可でおこなうのは泥棒と同じなんだ。
さすがに最近では、他人が考え出した作品を勝手に使うのはいけないことだと理解した教会も増えてるけど、いまだに「でもイエス様のためだから」というクリスチャンもいる。

神様を愛していると言いながら、神様を困らせていないか?
神様を愛しているのに、神様の言葉である聖書を無視していないか?
ぼくたちが勝手に決めた「私たちがこうすることを神様は望んでおられる」ではなく、神様が本当に喜ぶことはなんだろうということを考えるようにしよう。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年1月29日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。



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