主がイスラエルの牧者にダメ出し【エゼキエル書34章】【やさしい聖書のお話】

〔この内容は、布忠が教会学校リーダーとして作成している動画の内容を再編集したものです。教会に来ている子供たちを対象にしているため、キリスト教の信仰に不案内な方には説明不足なところが多々あるかと思います。動画は以下のリンクからご覧いただけます。〕

イスラエルの牧者たちには、まかせられない!

エゼキエル書34章で主は、エゼキエルに「イスラエルの牧者たちに、こう予言しなさい」と命じます。
ユダ王国の人々を羊にたとえて、王や預言者や祭司といった国のリーダたちを「牧者(羊飼い)たち」にたとえているのだけど、彼らに対する主の言葉は一言でいうなら「お前ら全然ダメじゃないか!」です。

災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは…群れを養おうとはしない。
お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した。彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。(34章2-5)

羊(国民)を養うのが仕事の牧者(リーダー)たちが、羊が病気してもケガしても行方不明になってもほったらかしじゃないか、と。

「だから、ユダ王国の牧者たちよ、よく聞け!お前たちにはもう羊をまかせない。私が牧者だ。私がわたしの羊たちを養う」と主は言うのです。

それゆえ牧者たちよ、主の言葉を聞け。
主なる神はこう言われる。見よ、わたしは牧者たちに立ち向かう。わたしの群れを彼らの手から求め、彼らに群れを飼うことをやめさせる。…まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはみずから自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。
わたしは自分の羊を探すわたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す。わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良い牧草地で彼らを養う。…わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。…わたしは公平をもって彼らを養う
(34章9-16節)

そしてのちに、究極の牧者である救い主イエス様が登場することになります。

失敗してきた牧者たち

イスラエルの牧者である王たちや預言者たちは、主から離れていき、羊(イスラエル)を養うことにも失敗して、国が滅びて捕囚になるほどの事態になってしまいました。

のちの時代に捕囚から帰ってきたユダヤ人は「今度こそ主に従う国になろう」と考えました。
けれど牧者である宗教家たちは、聖書の言葉よりも、聖書についての自分たちの言葉で羊(ユダヤ)を養うようになって、聖書が告げていた救い主であるイエス様が来た時も、救い主だとわからなかったのです。

ユダヤがローマ帝国に滅ぼされたあと、クリスチャンたちは「ユダヤ人はイエス様が救い主だとわからずに十字架で殺してしまった。イエス様が救い主だと知っている私たちこそ正しい」と考えていました。
けれど牧者たち(カトリック教会)は少しずつ聖書から離れてしまった時期に、そこからプロテスタントが別れました。

プロテスタントの人たちは「カトリックと違って私たちは聖書に帰ろう。私たちこそ正しい信仰だ」と考えていました。けれどもプロテスタントの中にもいろいろなスタイルや考え方が生まれて「私たちが正しい」と言って別れていきました。
そんな中でイギリスでは、英国国教会(えいこく・こっきょうかい)という牧者にバプテストの人たちが「国の教会が人々を支配したり従わせたりするのは間違っている」といって別れていきました。

では、バプテストの牧者たちは大丈夫なのでしょうか。

バプテスト教会で、牧者とは

牧者というと「牧師のこと」と思うかもしれません。そういう教会もありますがバプテストでは牧師だけが牧者ではありません。みんなお互いに牧者だという、相互牧会(そうごぼっかい)という考え方です。

牧師が牧者で、教会の人たちが羊です。
でも、教会の人たちも牧者で、牧師も羊なのです。
教会の執事たちと教会の人たちの関係も同じだし、教会の人たちもおたがいに牧者です。

教会学校では、リーダーが牧者で、メンバーが羊です。
でもメンバーも牧者で、リーダーも羊。メンバーどうし、リーダーどうしも、たがいに牧者です。

親子で教会に来ているなら、お父さんお母さんが牧者で子供たちが羊。
教会の大人たちが牧者で、教会の子供たちが羊。
でも、子供たちも牧者で、大人たちやお父さんお母さんも羊です。
子供どうし、大人どうし、お父さんとお母さんも、たがいに牧者です。

だから、神である主が牧者として、羊であるすべての人を愛して養ったように、教会のみんなはおたがいに牧者として、羊である教会の人たちを愛して養わなきゃいけない。
「よい羊飼い」であるイエス様が、教会の外にいる羊たちのためにも十字架で命を捨てたように、ぼくたちはおたがいに牧者として、まだイエス様を知らない羊たちのために命がけでイエス様を伝えなきゃいけない。

たいへんだと思う?むずかしそう?でもそれがバプテストです。
それに、いつだってイエス様がぼくたちのお手本だから大丈夫。「よい羊飼い」であるイエス様のようにやればいいんです。
どうしたらいいかわからない時や、何をしたらいいかわからない時には「イエス様だったどうするかな?」を考えてみてください。

ちなみにバプテスト連盟の教会学校では「共同学習」といって、「リーダーが教える、メンバーは教わる」というだけじゃなくて「たがいに教え合う教会学校」を目指しています。
だからメンバーのみんなも、リーダーにいろいろ教えてください。
たとえばリーダーに質問するだけでも、リーダーにとってはその質問について考えることが新発見になるということは、とてもよくあることです。時には、質問されたことを考えてみたら「ごめん、さっき教えたのは間違ってたかも」って気づくことだってあります。

おまけ:聖書の翻訳は難しい

今日の箇所で実は、新共同訳の翻訳がおかしいところがあります。
34章7などの「主なる神」は、実は「主なる主」と訳さないとおかしいんです。
どういうことだ、って?

新共同訳の旧約聖書で「主」と訳している言葉はふたつあります。
ひとつはアドナイ。これは日本語の「主」にあたるヘブライ語です。
もうひとつはヤハウェ。これは主の名前です。

ちなみに、ヘブライ語で「神」はエロヒムです。
だからヘブライ語聖書で「アドナイであるエロヒム」と書いてあったら「主なる神」と訳されます。「エロヒムであるヤハウェ」なら「神である主」です。

で、今日の箇所では「アドナイであるヤハウェ」と書いてあります。「アドナイ」も「ヤハウェ」も「主」と訳すなら、「アドナイであるヤハウェ」は「主である主」か「主なる主」と訳すことになりますよね。

でも「主なる主」「主である主」は、やっぱり日本語としておかしいですよね。それでこのパターンは「主なる神」にしてしまったのでしょうか。
でもここにはエロヒムは出てこないから、「神」と訳すのは間違い。これを「主なる神」にしたら、「聖書の翻訳」じゃなくて「聖書の書き換え」になってしまう。
でも「主なる主」にしないと、「主なる主」とかでは日本語がおかしい。
聖書を翻訳した人たちは、とても困ったのでしょうね。

ちなみにユダヤ人がヘブライ語聖書を読む時は、ヤハウェと書いてあるところを「アドナイ(主)」と読むんです。十戒で「あなたの神、ヤハウェの名をみだりに口にしてはならない」と命じられているから。
だったら日本語聖書でも、神様の名前が書いてあるところは「ヤハウェ」と書いておいて読み仮名を「主」にしたらどうかなと思うのだけど、でも読み仮名を漢字で「主」にするのもそれはそれでヘンな感じでしょうか。

どんな文章でも外国語に翻訳するのはカンタンなことではないけれど、神の言葉である聖書は特に翻訳が難しいのです。

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