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人の目的と聖書【バプテスト初歩教理問答書】

第1-6問「Ⅰ 人の目的と聖書」を読んでみました。
それぞれの問答に思ったことを少しでも書いていきますが、今回は第5問が中心です。

Ⅰ 人の目的と聖書

第1問で「神さまのみ栄え」について考えた

第1問 わたくしたちにとって、いちばん大切なことは何ですか。
答 神さまのみ栄えを表すことと、いつまでも、神さまに信頼することです。
Ⅰコリ10:31、詩73:25,26

『バプテスト初歩教理問答書』

Ⅰコリ10:31は「何をするにしても、すべて神の栄光を表すために」の個所。
確かにこれは、第1問にしたいくらい大事なことですね。いろいろな問答書の第1問を並べてみたくなった。

ただ、じゃあ「神さまのみ栄えをあらわす」て、どういうことなんだろうか。どうすることなんだろうか。

たとえば「そういうことをするのは、神様の栄光を表すことにならない」というのは、わかる気がする。
じゃあ「神の栄光にならないことをしない」ということでいいんだろうか?

第2問は問答無用さがイイネ

第2問 なぜ、神さまのみ栄えをあらわし、いつまでも、神さまに信頼しなければなりませんか。
答 神さまは、わたくしたちを、そのように造られたからです。
エペ2:10、Ⅰコリ10:31

『バプテスト初歩教理問答書』

神の栄光をたたえるのが本来の私たちの在り方なんだ、という問答無用な感じがいい。
「子供むけの問答書だからこのくらいで」じゃなく、大人にとってもこれでいいんだと思う。

神に創造されたから!それ以外にあるか!

ただ、日本バプテスト連盟は自由主義神学が強いのだけど、創造論はどうとらえているのかなあ。他のバプテストではどうなのかなぁ。
科学的ではないよね。神が人間を創造したとか、合目的性とかは、合理的ではないということになりそう。進化論的には、「人の目的」を考えること自体がナンセンスなんじゃないかな。

あと、ここでもやはり「神さまのみ栄えをあらわす」とはどういうことか、という問題の解決が置き去りになってしまう。
あとで出てくるんだろうか。

第3問は急に「人間以外」の創造

第3問 神さまがお造りになったのは、わたくしたち人間だけですか。
答 神さまは、天と地と、すべてのものを造られました。
創1:1、コロ1:16

『バプテスト初歩教理問答書』

コロサイ1:16は、「万物は御子において造られた」の個所。

わたくしたち人間が神に創造された、という話は第2問でさりげなく触れてるだけで、もう自明の理というくらいあたりまえのこととして「人間だけですか」というのが興味深い。

第4問、キリスト教はそこで間違い続けたよね

第4問 どうすれば、 神さまのみ栄えをあらわすことができますか。
答 神さまを愛し、神さまのご命令を守ることです。
申6:4-9

『バプテスト初歩教理問答書』

申命記6:4-9は、「心を尽くし、魂を尽くし…あなたの神、主を愛しなさい」の個所。

「神さまのご命令を守る」は考え方が難しいと思った。
「神さまのご命令」だとして、いろいろな間違いをしてきたのがキリスト教じゃないですか。
十字軍による侵略戦争を「神がそれを望んでおられる」と言って。
植民地獲得競争を「神を知らない蛮族を支配してキリスト教化してあげるのが正しい」とか。
日本への原爆投下という戦争犯罪を「平和を作り出す者は幸いなのだから、戦争を早く終わらせるために正しかった」とか。
米大統領が演説で「神の祝福を」と言い続けると、イラクへの侵略さえも支持しちゃう国民とか。

「神さまのご命令を守る」という考え方は正しいけれど、あやうさを感じる。
と思ったらその点は次の第5問に答えがありました。

第5問は「完全には」が効いてる!

第5問 神さまがおられることと、そのご命令とは、なにからわかりますか。
答 完全には、ただ聖書からだけです。
Ⅰコリ1:21、2:9,10

『バプテスト初歩教理問答書』

参照箇所はいまひとつピンとこないのだけど。

第4問で、「神さまのご命令」を人がふりかざすことの危険について考えたけど、何が「神さまのご命令」であるかは、「キリスト教徒である権力者の言葉」ではなく、「教会のえらい人の言葉」でもなく、「ただ聖書からだけ」わかるというのは、アーメン(賛成)だなと。

でもって、それに「完全には」がついてるのも、とても大事。

ぼくは先輩たちから「ただ聖書のみ」と教えられてきました。
でも「聖書に従った先輩たちの生きざま」からも多くのことを学んできたし、そうした先輩たちの聖書解釈にもとても影響を受けている。先輩たちというのは、ぼくが子供の頃の教会学校リーダーでもあるし。
言うまでもなく、心から尊敬する何人かの牧師たちの言葉、説教、聖書解釈にも、とても影響を受けている。

さらにいえば「神学」というものも貴重な財産だと思う。教父時代から連綿と、先達たちが全力で神と向き合っては蓄積してきたものだから。
今の時代からすると、あるいは個人的に、賛成できないものもある。でもそれさえも(ぼくの視点からは)「こっちは行き止まりだった。別な道を探せ」という貴重な情報だと思うんです。それが無かったら自分で「進んでみたらそっちじゃなかった」を繰り返さなきゃいけない。
まして「なるほど!」と感じるものは、先達からの「私はここまで進んだ。君たちはここからささらに先へ」というバトンみたいなものだと思う。

「聖書のみ」と言い切ってしまうと、よい影響を与えてくれた先輩たちや、膨大な蓄積を残してくれた先達たちを否定するような気がしてしまう。
確かにそれらは「聖書そのもの」ではないのだけれど、「聖書にもとづいたもの」としてぼくに「神さまのご命令」を指示し続けてきた。

だから「ただ聖書からだけ」に「完全には」をつけてるのって、ほんとアーメンだと思う。
多くの「人の言葉」によって、「神さまがおられることと、神さまのご命令」を知ってきたけど、完全にはそれは聖書から知るんだ、と。

第6問、聖書に書いてあること

第6問 聖書には、何が書いてありますか。
答 本当の神さまを愛し、喜んでその神さまに従う方法が書いてあります。
Ⅱテモテ3:16

『バプテスト初歩教理問答書』

Ⅱテモテ3:16
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。

『聖書 新改訳2017』

ちょっと、答えと参照箇所が微妙にかみあってないような?
答えでは、聖書は「神を愛し従う方法」が書いてあると。
参照箇所は、聖書は「教えと戒めと矯正と義の訓練」に有益だと。
なんか、脳内で「聖書ってそうだよね」と「で、だから?」とが主導権争いしてる感じ。

答えの「喜んで」が大事なのだと思う。「聖書で命じられているので、自分の喜怒哀楽とは関係なく従う」というのではなく、神を愛するなら神に従うことには喜びがあるはず。
ということは、喜びがないなら、神を愛しているから従ってるのではない。
で、どうしたら「神を愛して、喜んで」できるかが参照箇所にあるかと思ったら、直球ではないような。
今後の問答に出てくるのだろうか。

次回は

第7問から第67問が「信仰について」で、そのうち第7問から第17問が「神」についての問答になっています。
でも計11個の問答を一度にやるのもたいへんそうだな。

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