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祭司エズラと鑑真大和上【エズラ記7-8章】【やさしい聖書のお話】

鑑真のこと

突然ですが、鑑真(がんじん)というお坊さんを知っていますか?
道徳の授業で聞いたことがあるかもしれません。

のぶおリーダーがまた変化球だよと思うかもしれませんが、ちょっと聞いてください。

奈良時代、それまで仏教というのは皇族や貴族など「えらい人のもの」だったのを、聖武天皇が「仏様に日本のすべての人を救っていただきたい」という祈りを込めて奈良の大仏を作らせました。
この聖武天皇が唐の国に使いを送って、仏教をちゃんとわかってるお坊さんを日本に送ってほしいと頼みます。

聖武天皇像

そこで、唐の国でとても尊敬されていたお坊さんだった鑑真が弟子たちに「誰か日本に行く者はいないか」とたずねました。でも誰も「私が行きます」と言わなかったので、鑑真は自分が行くことにしたのです。
鑑真を行かせたくない弟子たちが役人を動かすなどいろいろ妨害したり、嵐にあったり船が漂流したりで、日本海を渡るのに5回も失敗しました。5回目の旅では両目とも見えなくなってしまいました。それでも鑑真は日本のためにと、ついに6回目の旅でやっと日本に着くことができた。ここまで12年もかかりました。

鑑真和上座像
唐招提寺

でも鑑真はなぜ、そうまでして日本に何をしに来たのだろう。
聖武天皇はなぜ、わざわざ中国からお坊さんを呼ぼうとしたのだろう。
当時の日本は仏教が伝わってから約200年も経って、お寺もたくさんあって、お坊さんもたくさんいたのに(仏教伝来は538年、聖武天皇の在位は724年~749年)。

実はその頃の日本の仏教は、いろいろなことがちゃんとしてなかったんです。
お寺はある。
お坊さんもいる。
でもそのお坊さんというのが、ちゃんとしてない人が多かった。私度僧(しどそう)といって、素人が「私は今日からお坊さんです」といってやってるだけで、お釈迦様の教えもほとんどわからないような人が増えていたのです。
ちゃんとしている私度僧ももちろんいたけれど、「お坊さんになれば税金をとられないで済む」というだけでお坊さんを名乗る人が増えて問題になっていました。

それで伝戒師(でんかいし)という「あなたには仏教のお坊さんをまかせられます、という判断ができる人」を日本に招く必要があると、聖武天皇は考え、鑑真がそれに応えようと苦労して日本まで来てくれたということだったのです。

エズラと仲間たち

さて。
先週までエズラ記から読んだように、エルサレムに、主を礼拝する民、ユダヤ人が帰ってきました。
主の神殿の工事も完成しました。
そして、エルサレムで主を礼拝することが再開され、主がイスラエルの神であることを喜ぶ祭りも再開されました。
けれど足りていないことがあったのです。

エルサレムに帰らないでペルシアに残った人たちもいて、エズラもペルシアに残っている組だったのだけど、神殿が完成して礼拝や祭りが再開されるというできごとのあとに、エズラがペルシア(バビロン)からエルサレムにやってきます(エズラ記7:1)。
このとき男だけで千数百人がエズラと一緒でした。その人たちの家族も含めると数千人になるでしょう。神殿工事のため先に帰国した人たちに続く、帰国者の第二陣です。

ただ、エルサレムへの途中でエズラが全員を集合させると、問題があることがわかりました。

そこには民も祭司もいるのが分かったが、レビ人が見当たらなかった。

エズラ記8:15(新共同訳)

レビ人というのは、イスラエルの中のレビ部族のこと。
土地をたがやしたりという仕事ではなく、主に仕えることを仕事とするのがレビ部族です。その中でも、モーセの兄アロンの一族が祭司、ゲルションの一族が神殿の建物の係、ケハトの一族が神殿を防衛する係、メラリの一族は神殿の部品や神殿で使う道具の係、というふうに決められていました。
「祭司がいたけど、レビ人がいない」というのは、レビ部族の中でも祭司のアロン家の人たちはいたけれどそれ以外の係のレビ人がいないという意味なのだろうと思います。
主を礼拝する神殿ができて、主を礼拝する民がいて、そして主に仕える祭司もいるけれど、祭司以外の「神殿を中心とした主を礼拝する民」に必要な人たちがいなかったのです。

エルサレムでの礼拝が再開していたけれど、それはちゃんとしていなかったのです。
エズラ記を読むのは今日の8章までだけど、9章以降を見ても、礼拝だけじゃなく、主の民の生活がいろいろと「ちゃんとしていなかった」ことがわかあります。

それでエズラは、神殿の仕事をするレビ人たちに協力を求めました。一緒にペルシアからエルサレムに帰ろうって。
それで、いくらかのレビ人が一緒にエルサレムに行ってくれることになりました。

「ちゃんとする」ために

鑑真は、日本の仏教をちゃんとするために、日本に来てくれました。
エズラと仲間たちは、神殿を中心としたすべてのことをちゃんとするために、エルサレムに帰ってきた。
ところで、ぼくたちはちゃんとしてるのでしょうか。今の時代の教会は、キリスト教は、ちゃんとしてるのでしょうか。

エズラより前には、たとえばヨシヤ王が宗教改革をしました。預言者たちも、主の民が道を間違えたときに、主からの言葉によって宗教改革しようとしました。
キリスト教では、カトリックが聖書から離れかけたときに「教会がおかしくなってるぞ」と声を上げる人たちが立ち上がりました。宗教改革者と呼ばれる人たちは、プロテスタントを作ろうとしたんじゃなくて、カトリックを改革しようとしたのです(結果的にカトリックから分かれてプロテスタントと呼ばれるようになったけど)。
じゃあ、プロテスタントのぼくたちには今、改革されるべきところはないのでしょうか。

教会が、現代のキリスト教が、プロテスタントが「ちゃんとしてる」のか、それとも自分では「ちゃんとしてる」と思ってるだけなのか。
その判断の基準は、なによりも聖書です。
ちゃんと聖書のとおりにやってるかどうか。
いろいろ理由を作って「聖書にはこう書いてあるけれど、でも」といって違うことをやったり教えたりしていないか。

人間は神ように完全ではないんです。間違えてしまうことはあります。だからぼくたちはいつも、自分たちのことを確認しなきゃいけないし、確認し続けなきゃいけない。
「唯一の神に従う私たちが正義だ」と考えて間違いをたくさんしてきたのが教会の歴史です。今ぼくたちがちゃんとしていないところがあるなら、のちの時代の教会から「あの時代の日本の教会はちゃんとしていなかった」と言われるでしょう。ぼくたちがやがて主の前に立った時に「口先で『主よ、主よ』と言っていただけだったね」と言われてしまうことになります。
何より、ぼくたちキリスト教を見てる人たちに「キリスト教はパス」と思わせてしまうかもしれません。実際のところ、キリスト教のことを「教えはすばらしいけれど、やってることはちょっとね」と思ってる人は、意外と少なくないです。

自分の意見を持つのは大事。
憲法は大事。
でもそうした「人間に由来するもの」よりもまず、神様の言葉である聖書を大事にしましょう。

《動画版》

このnoteの内容は、2022年10月23日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
また、このnoteの内容は完全に個人のものです。


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