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いい塩梅でイエス様を伝える【コロサイの信徒への手紙4:2-6】【やさしい聖書のお話】

牧師のために祈る

コロサイの信徒への手紙は4章までしかなくて、しかも4章の後半は手紙の宛先の人たちへの挨拶が書かれています。なので今日読む4章2-6が、この手紙で読者に伝えたかった用件のシメになります。
その部分でパウロはまずこう書いています。

同時にわたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。

コロサイの信徒への手紙4:3(新共同訳)

「わたしたち」というのは、この手紙を書いているパウロとその仲間たち、イエス様を伝えるために働いている人たちのことです。

実はぼくは、神様は「強い人」を選んで牧師にするのだろうなって思っていました。強さというのもいろんな種類があるけど、ぼくが知っている牧師というのは、確信に満ちて堂々と語る人、頭のいい人、活発、活動的な人、リーダーシップをとれる人、といった「何かの意味で強キャラな人」がほとんどだったからです。そういう人を神様は牧師に選んで、教会のリーダーにしたり、弱い人をはげましたり力づけたりという役割にしたんだろうなって、なんとなく思ってた。

でもたくさんの牧師と知り合う中で、こういう言い方は失礼かもしれないけど「この人はどこが強キャラなのかわからないな」「むしろ弱キャラじゃない?」という牧師にも出会ってきました。
考えてみたら、「強キャラな牧師」じゃないと全能の神様のために働けないということはないはずだよね。神様こそ比類のない強キャラで、そんな神様は強キャラな人間でも弱キャラな人間でも御心のままに用いることができる。

聖書の中でもそうだった。
モーセが主から「エジプトに行ってイスラエルを救出してこい」と言われた時、モーセは逃亡中の羊飼いで80歳のじいさんだった。「強」な要素がひっつもない。それはモーセが一番よくわかってたから、主の御指名を必死で断ろうとしたんだ。
でも主は、奇跡をおこなう力をモーセに授けた。モーセが「しゃべるの下手です」というと、主は「誰が人間に口を作ったと思ってるんだ。この私がお前の口と一緒にいる」という。それでもモーセが「ムリです。他の人に」というと、主は最後は「あなたの兄でしゃべりが得意なアロンを一緒に行かせる。以上!」(出エジプト記3-4章)

イエス様の弟子たちもそう。
弟子の多くは漁師だった。漁師といっても、学校のかわりに行っていた会堂でずっと聖書の読み聞かせを聴いて育ったから、子供のうちに聖書をおぼえてしまうのが普通だったそうです。でもそれだけ。ラビや祭司みたいに専門的に学んだわけじゃないし、誰かを教えるという経験もなかった。そういう人たちをイエス様は選んで、自分が行く予定の町や村に弟子たちだけで行かせて、教えや奇跡をおこなわせた。

パウロも、「手紙は力強いけど、会ってみると全然たいしたことない」なんて言われるような人だった。自分で「とげ」と呼んでいる、障害もあったらしい。
でもパウロが大活躍したのは、パウロだけの力ではなく神の力によるものだった。パウロは、エフェソ教会への手紙では『わたしたちは…神が前もって準備してくださった善い業(よいわざ)のために、キリストイエスにおいて造られたからです」と書いている。準備はもう神様が済ませているから、わたしたちは行って実行するだけだって。
パウロの「私たちのために祈って!」は、成し遂げるのは神様だということがあった上で、あとパウロたち人間に神様がまかせているところをがんばれるように祈ってくれってことなんだ。

そうしたら、手紙を受け取ったコロサイ教会やエフェソ教会の信徒たちが、パウロたちのために祈らなかったはずはないともう。

ぼくたちも、牧師のために祈ろう。
とくにバプテスト教会では、「牧師だけが働く」「牧師だけが偉い」という考え方はしなくて、「みんなが教会」という考え方を強調する。牧師も牧師以外も、男も女も、大人も子供も、それぞれに神様からの「君にこれをまかせる」があるし、そして聖書は「神様の方では準備は完了してる」と言っている。

牧師には牧師のために神様から与えられた役割がある。
ぼくたちにもそれぞれ、神様から与えられた役割がある。で、その一つに「神様が選んだ牧師のために祈る」ということがあるんだ。

いい塩梅(あんばい)で

この手紙の結論としてもうひとつ書かれていることがある。

時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきかが分かるでしょう。

コロサイの信徒への手紙4:5-6(新共同訳)

牧師だけじゃなく教会の一人一人が、教会の外部の人にイエス様を伝える役割を与えられている。そのときは「賢くふるまうこと」「塩で味付けされたこころよい言葉で語ること」が大事。

「イエス様を伝えたい!」という気持ちが先走りすぎた語り方をしてドン引きされるのって、急に塩味が効きすぎたものを出して「いや、そんな濃いのはいいよ」ってなっちゃうってことなんだと思うんだ。
だからといって「素材の味そのまま」で出しても、聖書もキリスト教も説明なしでは伝わらないところが多い。こころよい(気持ちいい)味付けが大事。

「いい塩梅(あんばい)にする」という言葉があります。
「塩」は塩味のこと。「梅」は梅酢、梅からつくったお酢のこと。現代のように豊富な調味料が発達する前の日本では、この「塩」と「梅酢」が味の決め手だったのだそうです。
それで、ちょうどよい味付けにすることを「いい塩梅」というようになり、そこから「やりすぎたり足りなすぎたりでなく、物事をちょうどよくやること」とか「早すぎも遅すぎもしない、ちょうどよいタイミング」ということも「いい塩梅」というようになりました。

イエス様を伝えるのにも、相手に合わせた「いい塩梅」が大事。
「イエス様ってね」「聖書ってね」「神様ってね」てぐいぐい行ったほうがいい相手もいるかもしれないけれど、そうじゃない相手もいる。
同じ相手でも状況によって違うということもあるから、相手を理解しないといけない。そのためには相手への愛がないといけない。一回ではなかなか伝わらないけど、だからといってしつこくてもだんだん聞いてもらえなくなる。
「今日は元気がないみたいだから、神様の愛を伝えよう」とか、「今日はいつも以上に元気みたいだから、神様のパワフルさを伝えよう」とか。もしかしたら「今じゃない」って場合だってあるかもしれない。

いい塩梅で。ちょうどいいタイミング、こころよい塩味で。イエス様を伝えていくことができたらと思います。

動画版はこちら

この内容は、2022年6月26日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。

動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。

動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。


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