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パウロの裁判【使徒言行録21:27-23:11】【やさしい聖書のお話】

パウロは、「エルサレムに戻れば、牢屋と苦しみが待っている」と聖霊から知らされていました。それでもパウロは聖霊にうながされるとおりにエルサレムに戻り、そして礼拝のため神殿に行ったときに逮捕されます。

パウロvsアジア州から来たユダヤ人たち

パウロが逮捕されたのは、アジア州でパウロが宣教していたときに反対していたユダヤ人たちでした。イスラエルの男子は祭りのときにはエルサレム神殿に行かなければならないと聖書が命じていたので、アジア州のユダヤ人たちもエルサレムに来ていたのです。

年に三度、男子はすべて、主なるイスラエルの神、主の御前に出ねばならない。

出エジプト記34:23(新共同訳)

このユダヤ人たちは、パウロがエフェソでイエス様を伝えていた時に一緒にいたトロフィモというエフェソ人を覚えていたようです。そしてトロフィモがエルサレムの都にいたこと、パウロが神殿の境内にいることから、「パウロが異邦人を神殿に連れ込んだ」と思ったのです。

彼らは、エフェソ出身のトロフィモが前に都でパウロと一緒にいたのを見かけたので、パウロが彼を境内に連れ込んだのだと思ったからである。

使徒言行録21:29(新共同訳)

当時もエルサレム神殿には世界中からお参りにくる人たちがありました。ところで神殿の境内は、次のように分けられていました。

第二神殿(ヘロデ神殿)

異邦人は、「異邦人の庭」(上図のCourt of the Gentiles)まで入ることができます。
イスラエル人の女は「婦人の庭」(上図のWomen's Court)まで入ることができます。
イスラエル人の男は「イスラエルの庭」(上図のCourt of Israerl)まで入ることができます。
さらにその奥は、イスラエル人の男でも祭司だけが入れる「聖所」があり、そして聖所の奥には全人類の中でイスラエル人のレビ族のアロン家の大祭司ただ一人だけが、しかも年に一回だけ入れる「至聖所」がありました。

で、エフェソから来ていたユダヤ人たちもパウロも「イスラエルの庭」にいたのでしょう。それでユダヤ人たちは「パウロが異邦人を『イスラエルの庭』に連れ込んだ!」と思って激怒したのです。

パウロvs祭司長たちと最高法院

パウロを逮捕したのはローマ軍でした。逮捕というより、パウロに襲い掛かるユダヤ人から保護した感じです。で、パウロはユダヤ人だけど、ローマ帝国の市民権があって、つまり法律などの面ではローマ人として扱われる権利があったんです。で、千人隊長はユダヤの議会を招集して、パウロの問題を解決させようとした。
 
ここでパウロは、ユダヤの議員たちに向かってこう語ったんです。
「兄弟たち、わたしは今日に至るまで、あくまでも良心に従って神の前で生きてきました。」
この裁判は、パウロが神の前で正しいかどうかが裁かれる裁判なのです。

番外編:ファリサイ派vsサドカイ派

この裁判は意外な展開をします。パウロは、サドカイ派の議員とファリサイ派の議員がいることに気付くと、「私が訴えられているのは、死者が復活するという希望についてです」と大声で言ったんだ。
サドカイ派もファリサイ派も、神に従う信仰熱心な人々で、聖書をよく勉強していて、ユダヤの人々から尊敬されていました。
ただ、サドカイ派は天使とか霊そして復活ということは信じない。ファリサイ派はそれらを信じる。というわけで、パウロをほったらかしでサドカイ派とファリサイ派の大激論になってしまった。そして、パウロもファリサイ派だから、ファリサイ派の議員たちは「パウロは無罪だ!」って。

この議論には決着はつきません。もし決着がつくなら、サドカイ派とかファリサイ派とかわかれてなかっただろうしね。 

どういう戦いだったのか?

パウロvsユダヤ人たち。
パウロvs祭司長や最高法院。
そしてファリサイ派vsサドカイ派。
よく考えると全員、神様を心から愛して従う人たちでした。信仰が篤く、聖書をよく読んで、聖書に書かれている神様からの規則を守ることをとても大切にしていた。
パウロだって負けてない。自慢しようと思ったら「私以上に律法を守っているユダヤ人はいない」って言いきれるくらいです。

わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。

フィリピ3:5-6(新共同訳)

正義と悪の戦いじゃなくて、正義と正義の戦いだったんだ。悪役がいないの。どちらも正義。
「敵には敵の正義がある」っていう話じゃなくて、聖書の神様を信じてるどうし、聖書の言葉に従ってるどうしの戦い。
 
こういうのは現代のキリスト教の中にもあります。ファリサイ派のように復活を信じてるクリスチャンもいれば、サドカイ派のように復活を信じないクリスチャンもいる。で、そんなのは「どっちが正しいか」なんてジャッジできる人間はいないよね。
ただ、先週も話したけど、「聖書が教えてきたことを思い起こす」というのは大事。中には「聖書にはこう書いてあるけれど実は」という考え方の人もいるけれど、今はそういう人たちのことはほっとくとして、ぼくは聖書を手掛かりにして、聖書を信じて、聖書が伝えている神様に従っていく者でありたいと思います。

以下、余談

「異邦人の庭」「婦人の庭」は差別?

異邦人(ユダヤ人以外)は「異邦人の庭」までしか入れないというのは、外国人差別でしょうか。
イスラエルの女は「婦人の庭」までしか入れないというのは、女性差別でしょうか。

これはとても難しいです。イスラエルにとって社会の仕組みであると同時に、宗教上の決まりでもあるからです。
日本でもたとえば、大相撲の土俵に女が上がってはいけないというのは、大相撲はスポーツの興行であると同時に宗教行事でもあるからなんですね。「日本の天皇は男しかなれないというのは差別だ」と言った牧師が、日本人から「ローマ教皇だって男しかなれないじゃないか」と言い返されて答えられなかったという話もあります。
牧師にとっては「あれはカトリックのことだから」と言いたかったかもしれませんが、クリスチャンでない日本人から見たらカトリックもバプテストもひとまとめにキリスト教ですからね。

宗教上の決まりとか、決まりでなくても宗教的な意識・気分の中で決まっていることというのは、外部から「それを変えろ」というのは宗教の迫害になってしまう。
たとえば教会に対して「イエスを礼拝するな」と命令できるようになったら、それはキリスト教そのものに対する攻撃です。
実際に、「靖国神社合祀訴訟」という裁判がありました。靖国神社に対して「その戦死者を祀る(礼拝の対象とする)のをやめろ」とうい裁判で、この裁判を支援していたキリスト教の牧師もいます。でもこれって、裁判所が宗教に対して「それを礼拝の対象にするな」と命令できるようにするということですよね。この裁判自体が、日本国憲法が保障している「信教の自由」に違反してしまう(この点をクリスチャンの弁護士に質問したことがあるのだけど「そこが難しいんですよね」としか答えてもらえなかったです)。

だからといって「宗教上のことだから」といえば差別も許されるというわけにはいかないです。
それ以前にキリスト教にとって「信教の自由」は恐ろしいワナです(信教の自由がある先進国でクリスチャンは減り続け、キリスト教を信じることに迫害や危険がある国でクリスチャンが増えています)
それでも、「信教の自由」は人間にとって保障されるべき権利とされているので、慎重な取り組み方が必要なのです。

千人隊長って何者?

パウロを逮捕、いや救出した「千人隊長」について、『新聖書辞典』では次のように説明しています。

…新約において、主としてローマ軍団の将校を指す。陸軍少佐または大佐に相当する階級である。当時1軍団は、1隊約600人の歩兵からなる10隊に、約700人の騎兵が加わって編成された。各軍団には6人の千人隊長が配属され、…

新聖書辞典【せんにんたいちょう 千人隊長】より

この説明、ちょっとおかしいですよね。
1隊600人の歩兵が10隊と、約700人の騎兵とで「1軍団」だと言いながら、1軍団には「6人の千人隊長」がいたという。じゃあ、一人の千人隊長はどれくらいの兵力を指揮するの?1隊600人の歩兵を「1隊+2/3隊」ずつとか?

「1隊600人」は、百人隊(ケントゥリア)×6で構成されていました。百人隊×2で中隊、中隊×3つまり百人隊×6で大隊(コホルス)600人となります。
ローマの軍隊はこの百人隊が中心となっていて、百人隊は「ローマ軍隊の背骨」と呼ばれるほど重要でした。その指揮官である百人隊長は、軍隊で信頼されていたと同時に、市民からも非常に尊敬されていました。
大隊には6人の百人隊長がいることになりますが、その6人の中のトップが大隊全体の指揮を取ることになります。特に1軍団10個大隊のうち第1大隊を指揮する百人隊長は、プリムス・ピルス(第一の槍)あるいはプリミ・ピリ・ケントゥリオ(筆頭の百人隊長)などと呼ばれました。
と、ここまでどこにも「千人」という単位はなく、千人隊というくくりもないんですね。ローマ軍には、千人隊長という「指揮官」はいないんです。

千人隊長というのは、「階級」というよりも「身分」のようなものだったようです。初期には元老院の議員から、のちに民会から千人隊長が選出されました。つまり軍人ではないわけです。
1軍団につき6人の千人隊長が配属され、2人ずつ2か月の任期で軍団長の幕僚(指揮官と共にいて補佐する職)を務めたようです。

じゃあなぜ「千人隊長」という名前なのかというと、これはローマよりも前の時代、古代ギリシャの軍隊での、指揮官の階級でした。ローマは文化的にはギリシャ文化を受け継いでいたので、ギリシャ軍の指揮官の名称だけ持ってきたようです。
ややこしいからなのか、新共同訳の後継訳である聖書協会共同訳では、キリアルコスの訳語を「千人隊長」から「大隊長」に変更しています。ただ大隊長だと今度は「大隊(コホルス)の指揮官」と勘違いしそうですね。固有名詞の翻訳というのは難しいようです。

招集?召集?

新共同訳聖書では、千人隊長はユダヤの最高法院(議会)を「集」した、と訳しています。
ここで突然ですがクイズです。次のカタカナを漢字にしなさい。

  1. 米国大統領が議会をショウシュウする。

  2. 英国女王が議会をショウシュウする。

  3. 天皇陛下が議会をショウシュウする。

答えは。
1が「招集」で、2と3は「召集」です。
「召集」は「召し集める」の意味で、上の者が下のものを集める場合に使います。
「招集」は上とか下とか関係なく「招き集める」場合に使います。

アメリカは、大統領も議会も「国民の代表」として対等なので、「召集」ではなく招き集める=招集と書かれるのですね。
イギリスの国王や女王は議会よりも格上ということで「召集」。じゃあ日本では天皇は議会よりも格上かというと、憲法第7条では天皇が内閣の助言と承認により国会を「召集」すると定めています。言葉だけだと天皇が格上のようでいて、国民の代表である内閣が主導権を持つ仕組みになってるわけ。

で、ローマの隊長の場合、宗主国であるローマと属州であるユダヤは対等ではないから「招集」じゃなくて「召集」という言葉で訳しているわけですね。

動画版はこちら

余談のほうが長いくらいになってしまいましたが。
この内容は、教会学校動画の原稿に加筆して再構成したものです。キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、このページと動画の内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。
動画版は↓のリンクからごらんいただくことができます。

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