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十字架につけられた強盗の信仰【ルカ23:39-43】【やさしい聖書のお話】

2023年4月2日(日)の教会学校でのお話をもとに。

三本の十字架

今日から受難週です。
今週の木曜日が最後の晩餐の日、その夜にイエス様はゲツセマネでつかまって、夜のうちに裁判が行われ、死刑にされることが決まりました。
そして今週金曜日の朝9時、イエス様は十字架につけられます。
 
このとき、二人の強盗がイエス様と一緒に十字架で死刑になったのは有名ですね。
これはアンドレア・マンテーニャの「磔刑たっけい」という作品。磔刑は「はりつけの刑」という意味です。

アンドレア・マンテーニャ「磔刑」パリ、ルーブル美術館

十字架にかけられたイエス様を描いた作品はたくさんあるのだけど、二人の強盗も描かれているものはそれほど多くないような気がします。

十字架の上のイエス様というのは、キリスト教という宗教のど真ん中です。そうまでしてぼくたちを救おうとする神様の愛の究極です。
罪のない神様が、ぼくたちの罪が赦されるために、罪の結果である死を受け取る場面です。
聖書のすべての場面の中で、一番残酷で、一番重要で、一番崇高で、一番神聖な場面なんです。

そんな場面を描いた絵に、聖書に書いてあるからと言って強盗なんか描きたくないという気持ちはわかります。

昔の画家は、自分が描きたいもの描いて売るのではなく、注文を受けて作品を制作しました。宗教芸術の多くは、教会や修道院などから注文されたもので、祭壇など礼拝堂や、修道院の壁に置かれました。
強盗まで描いた十字架の絵が少ないのは、教会などが画家に注文する時に「強盗は描かなくていい」と指示したのかもしれません。

(受けた注文の中で画家はどうやって自分らしさを出していくかが勝負だったわけで、たとえば「最後の晩餐」を描くときはではユダだけテーブルのこちら側に描くのが当たり前だったところを、レオナルド・ダビンチはユダもイエス様の側に描くなどのオリジナリティを出しています。
一方で、エル・グレコは「背景の人物の頭がイエス様の頭より高いところに描かれているのはけしからん」など文句をつけられて、最初に約束した金額よりも安いお金しかもらえなかったりといったこともありました)

マンテーニャの作品『磔刑』では、二人の強盗も描かれているのだけど、イエス様とは違うかっこうではりつけにされてますね。
実際には、同じ刑罰なのだからこんなことはありえないと思うのだけど、「十字架にかけられた救い主」ということを大切にするために、強盗を「十字架にかけられた救い主」と同じようには描きたくなかったのかもしれません。

神が、罪人のひとりに数えられた

でもそもそも、なぜ二人の強盗がイエス様と一緒に十字架につけられたのか?
これは神様が旧約聖書で予告していたことの実現なんだ。

わたしのしもべは、多くの人が正しい者とされるために
彼らの罪をみずから負った。
それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし
彼は戦利品としておびただしい人を受ける。
彼がみずからをなげうち、死んで
罪人のひとりに数えられたからだ。
多くの人の過ちをにない
背いた者のために執り成しをしたのは
この人であった。

イザヤ書53:11-12(新共同訳)

つまり「イエス様と一緒に、強盗(罪人)が十字架につけられた」というわけじゃないんだ。
「強盗(罪人)と一緒に、彼(救い主)が死んだ」ということだったんだ。

ところでこの場面で、ぼくたちにとってとても重要なことを、強盗の一人が言ってるんだ。
さっきのマンテーニャの作品で、十字架の上の3人の顔の向きを見てみてください。右の強盗はそっぽを向いています。中央のイエス様は左の強盗のほうを向き、左の強盗もイエス様を向いているようです。二人が会話している感じで描かれているんですね。

聖書では、強盗の一人はイエス様をバカにしました。マンテーニャが描いた右の強盗でしょう。
するともう一人の強盗がこう言ったんです。

「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」

ルカによる福音書23:41(新共同訳)

彼は、自分たち強盗とイエス様とがそれぞれ、なぜ十字架で処刑されているのかを、わかってる。
そしてさらに、イエス様にこう言ったんだ。

「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」

ルカによる福音書23:42(新共同訳)

この強盗は、天国がイエス様の国だということを信じている。イエス様は天国の王様だ、つまりイエス様は神様だって。
そして、イエス様がイエス様の国である天国に行ったとき、私を思い出してくださいって。

これは、「私はこのまま陰府(よみ。死者の世界)に行きます。そこで自分の罪のむくいを受けるでしょう。でもイエス様が天国の玉座で私のことをちらっとでも思い出してくれたらうれしいです」ということ、ではないんだ。

思い出してください

聖書で「誰かを思い出す」というのは、その誰かを助けるために行動するということ。
「誰かを忘れる」というのは、その誰かを見捨てて何もしないということ。

聖書で人々が「主よ、私を思い起こしてください」と叫ぶとき、それは「神様、私のこと忘れてたと思うけど、思い出してくれたらそれでいいです」じゃないんだ。
「神様、今あなたの助けが必要です。大至急です。今すぐ救ってください」ということなんだ。

だから強盗がイエス様に「私を思い出してください」と言ったのは、「私は陰府に行くけれど、それからでも私を思い出して、私を救ってください」ということなんだ。
「イエス様、あなたは神です。あなたの国である神の国で、あなたが王となられた時、罪深い私を救ってください。陰府からでも私を救うことが、あなたにはできることを、私は信じます」ということなんだ。

はっきり言っておく

そんな強盗に、イエス様はこう答えた。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

ルカによる福音書23:43(新共同訳)

十字架にはりつけにされて死ぬのは、息ができなくて窒息死するという説があるんだ。
十字架にはりつけにされて、両手を支点にしてぶらさげられた体制だと、息を吸い込めない。息をするためには釘を刺されている所に力を入れて体を持ち上げなきゃいけない。そんな体制を続けることはできないから体が下がる。そうすると息ができなくてまた必死で持ち上げる。それを繰り返しているうちに、最後は体を持ち上げることができなくて窒息する。

そんな息も苦しい状況だから、この「はっきり言っておく」というのは、「言葉をはっきり」ということじゃないんだ。
もとのギリシャ語ではここは「 アミン」、 つまりアーメンなんだ。「確かに、本当に」ということだ。

イエス様は、息をするのも苦しい、自由にしゃべることもできない状態の中で、
「アーメンなこと、確かなこと、本当のこととして言います。
あなたは!
今日!
わたしと一緒に!
楽園にいる!」

「楽園」はギリシャ語でパラディソス、英語のパラダイス。
イメージとしては、エデンの園だよ、人が、何の心配も恐れもなく神様とともに平和に生きる世界(旧約聖書のギリシャ語訳では、イザヤ51:3、エゼキエル36:35で「エデンの園」をパラディソスと訳しています)
そこに、いつかではなく今日!一人ではなく、王なるイエス様と一緒に!あなたは、いるからね!

ぼくたちは、この強盗のような信じ方で、イエス様を信じているだろうか。
イエス様が神の国の王様だと信じているかな?
ぼくたちはもうすでに、イエス様と一緒に神の国にいるってわかるかな?

正直にいうと、ぼくはまだそんなレベルじゃないけど、でもこの強盗のようになりたいって思います。

動画版のご案内

このnoteの内容は、2023年4月2日の教会学校動画の原稿を加筆・再構成したものです。
動画版は毎回6分ほどの内容です。下記のリンクからごらんいただくことができます。
キリスト教の信仰に不案内な方、聖書にあまりなじみがない方には、説明不足なところが多々あるかと思いますが、ご了承ください。
動画は千葉バプテスト教会の活動の一環として作成していますが、内容は担当者個人の責任によるもので、どんな意味でも千葉バプテスト教会、日本バプテスト連盟、キリスト教を代表したり代弁したりするものではありません。このnoteの内容は完全に個人のものです。


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