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私が着付師になるまで④

ここでちょっと、前職の話を

 着付を習っていた当時、地方公務員として働いていた私ですが、他装に仕事としてのやり甲斐を見出し、退職するまでを書いておきたいと思います。

そもそも志は高くなかった

 私は高校時代、家政科(なんて昭和な響きw)で学んでいました。在学中は課題に追われ、正直あまり楽しいと感じなかったのですが、簡易な洋裁・和裁ができるようになったことは今でも取り柄になっています。
 将来は小学校か中学・高校の家庭科の先生になりたいと漠然と考えていたのですが、家が貧しくて大学進学希望を親に言い出せないと、二者面談の場で担任の先生に話しました。
 先生はそれを聞き「まずは就職して、ある程度お金が貯まったら夜学に通って教員免許を取るのはどうか」「就職先は、現場を見ておくために学校事務を選んでみては」というアドバイスをくださいました。
 学校事務ということは、一般的には公立学校。公立学校の事務ということは、即ち公務員。
 ご立腹する方もいらっしゃるかもしれませんが、実は私の志望動機は、この程度のものでした。

現実が見え、そのままズルズルと

 家政科の学生が事務職の公務員試験を受けるという、異端な進路選択をした私ですが、無事合格し、希望の職場に採用されました。
 事務員として学校の先生の傍らで働き、仕事の様子を見ていたのですが、1年位で「これは私には務まらない」と自覚しました。
 それと夜間の大学に、希望する教科の教員免許を取得できる学部がなかったこともあり、教員志望は自然消滅していきました。
 後日談ですが、高校時代の担任の先生は私達を卒業させた直後に退職した(定年ではない)と、手紙で知らせてくださいました。あの時のアドバイスは「止めておいた方がいいわよ」と、暗に伝えていたのではないかと、今は思っています。
 教職は諦めても、そのまま事務職を続けたことでゆとりある暮らしに繋がり、幾度もの職場異動で労務・税務・行政サービス等の知識が付いた私は、独立開業のノウハウには困りませんでした。
 今の私があるのは、先生のおかげだと思っています。

辞めどきを図る

 在職中の喜怒哀楽は数え切れないほどありますが、ここでは触れずにおきます。
 ところで私は30代位から、デスクでPCと固定電話を前に「事務職はいずれ仕事がなくなるだろうな。ていうか、なくしていかなきゃ」と考えていました。なぜなら、人手不足は公務員も例外ではありませんでしたから、それには人を増やすのではなく、仕事を減らすというわけです。
 しかし、業務改善策を打ち立てるわけでもなく、タスクをこなすだけで精一杯の日々…
 「この先、仕事意欲が低ければお荷物扱いされるだけなのに、なぜ私はこの仕事を続けている?今まさに人がいないから?…いや、そうじゃなくて、私はいつまでもこの安定感に身を委ねたままでいいのか?」
 ちなみに私の勤務先では、2019年頃からRPA化やAI化の検証が始まりました。仮にこれらのシステムが本格導入され軌道に乗ったときには、人手不足解消はもとより、人手が減らされることは目に見えています。
 「だとすれば、ここはいっそ、人の手でなければできない仕事を始めるか…?」
 近年よく聞く「リスキリング」。当時はそんな言葉すらありませんでしたが、たまたま、習っていた着付がドンピシャにはまったのです。

社会人の折り返し地点

 年金支給開始年齢が引き上げられる中、私の世代は少なくとも70歳までは働かないとならないのでは…とアラフォーの頃には予想していました。
 「永年勤続」、私の勤務先では入職から25年目で該当します(私の場合は2度の育児休業があったため27年目となりました)。
 ここまで25年、ここから年金支給までも25年とすると、つまり永年勤続は社会人の折り返し地点ではないでしょうか?
 70歳まで公務員一筋も立派だけど、私は違う仕事がしてみたい。着付と、それから学生時代に身につけた裁縫のスキルを活かすことも、今なら苦ではないかもしれない。
 着付と裁縫の仕事、合わせて「布商売」。これが私のアカウント名の由来です。
 2020年3月、私は永年勤続の表彰状と退職辞令を受け取り、新型コロナが流行り出していたのでひっそりと去りました。
 もしも、当時の私をご存じの方がこれを読んでいましたら、この場を借りて、ご挨拶に伺えなかったことをお詫びし、ご一緒できたことに厚く御礼を申し上げます。

写真奥のフラワーアレンジを最後の勤務日にいただいた。
職場の同僚に退職を伝えたのは2週間位前だったが、実は上司には約2年前に伝えていた。

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