見出し画像

それは狂気か宗教心か

その愛は狂気に似ている

もはや狂気とも言える愛。素晴らしいコピー。

これは2002年に公開された今敏監督の映画『千年女優』に謳われた物だ。この年同時に公開されていたスタジオジブリ『千と千尋の神隠し』、このヒットの裏で公開された長編アニメーション作品である。

内容としてはある女優の一代記なのだが、物語の移ろい、入れ子構造、その展開が非常に美しい。この一代記を記録するスタッフがこの物語のナビゲーターでもあるのだが、彼女の主観というべく物語の進みで展開するなかで、演じた役柄と彼女の人生がクロスし進んでいく様が、これまで見たことない物語の進み方を象っている。

物語の中で彼女はある一人の青年に出会い、彼を追い続けていく。約束の場所での再会を願って。もはや執拗といえるくらいまで、その人を追いかけ続けていく。

ただ彼が好き、というだけではない、尋常でない、もはや執念とも言える想い。彼女はその想いを胸に歩んでいく。

ひとついえるのは、彼に再会できた、とか、彼は実は死んでいた、とかそんな安易な物語ではない。もはや狂気とも言える彼女の物語。

彼女の物語の終演を迎える時、この映画の最期のセリフでもあるのだが、その言葉には衝撃を受けた。そのセリフを聞いてわたしは初めて映画を見て嗚咽が止まらなかったのだが、その時思い出したことがある。

本当の愛は宗教心とそう違ったものでないという事を固く信じているのです。

夏目漱石著『こころ』に出てくる主人公のひとり、先生のセリフだ。

狂気でもあり、宗教心でもある彼女が、彼を追い続けて得られたももはなんだったのか、今だったら何となくわかる。

これを宗教心とすると“神”と呼んだり、ラカンから引用すると“大文字の他者”と呼ぶのだろうか、その人が彼女の行動規範といった全てを支え得るものであり、大きく言えば心の拠り所、それがあるからこそ自己を肯定できる。その人を追いかけることで、想い続けることで究極の自己肯定を得て、彼女はまた新たに旅立っていく。

そばにいたい、共にありたいなどというもはやこの想いの前では独善的とも言える想いを超越した狂気。

他人の全てがそばにいて、気持ちが少しでも自分に向いていないと不安になっていた数年前の自分なら決して理解できなかったと思う。

むしろ想いに対価がないからこそ、それはまっすぐで、狂気であり、宗教心でもある。今ならわかる。それがいかに大きな覚悟を背負っているか。

たとえそれが、他者から見て狂気であろうとも、その人を想い続けることで得られる何かがそこにある限り、きっと何事にも負けはしない。そしてそれは心の安寧と何をも凌ぐ強さをもたらすと、今ならそう思える。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?