11,日本人における最古の野球試合がもしかしたら……

 仕事やらなんやらで失った体力を回復している時にこんな記事が入ってきた。

 日本野球最古の記録か、1872年に米国で試合、記事発掘(日本経済新聞より)

 1872年、アメリカにて日本人が試合をしたのではないか、という報告が野球学界総会で発表した、というのである。興味深いテーマが顔を出したと言える。記事にあるように同年にホーレス・ウィルソンが野球を現在の東大の前身にあたる旧制一高に教えている事が一般化している現在、日本と野球というもののつなぎ方を変える大きな一歩となりそうである。


1、アメリカにおける当時の野球

 アメリカにおいて本格的に野球が台頭するきっかけとなって周知されているのが南北戦争における余暇の使い方から、というものである。タウンボールやラウンダーズといったものはあちこちに散らばっていた事は予想されようとも、アレクサンダー・カートライトたちが提唱し、現在の野球のひな型とされるニッカーボッカールールはまだまだ地域的なものを抜け出せていなかった事が想像できる。

 その南北戦争が終わったのが1865年4月である事を考えると、その七年後に野球というものが本格的に立ち上がってくる事が見受けられる。アメリカのナショナルパスタイム(国民的娯楽)となりつつある過程の出来事であったのだ。

 また、選手のプロ化、その雇われた選手で構成されたプロチームの結成が出来てきた事により全米プロ野球選手協会(通称ナショナル・アソシエーション)が発足したのが1871年。この前年の事である。1869年のシンシナティ・レッドストッキングス(シンシナティ・レッズとは遠からぬ関係にあるが別チーム)を皮切りに、アマチュア、プロの垣根ができ始めた頃と言える。

 A・カートライト達が提唱したニッカーボッカールールが生まれたのが1845年とすると、ベースボールというものがルール上完成してからおおよそ二十年から三十年経った頃の出来事である事が分かる。

 投手の変遷で言うとこの頃はまだ手首を使っての投球、いわゆるpitchが解禁されている頃ではなく、手首のスナップを許される時期が1880年頃という事は、まだまだベースボールは打って走るスポーツであるという認識であった事は容易であろう。この辺りはタウンボールやラウンダーズといった余暇の遊びであった事の名残が残るものだろう。ただ、プロ化が著しい1870年前後であるから、本格的にスポーツとして始動してきた頃であると考えてもよい。

 そんな時代に彼らは試合をしたと言われている。

2、日本におけるアメリカ、そして試合

 日本における開国は1854年。日米和親条約締結である事と考えると趣が深い。試合を行ったとされるのが1872年なのだからおおよそ18年後の事である。明治政府の誕生が1868年である事を鑑みるととんでもない記録であると言える。

 アメリカに到着した華人が記録上1785年である事から、太平洋の航路は既に北西航路があった事を見ると、移動そのものは難しくても、アメリカへの渡航は不可能ではない時代になっている。野球をした日本人がアメリカに渡った頃には船で世界のどこにでも行ける時代であったという事だろう。その中である事から、日本人たちは江戸の終末期か明治の始め辺りに渡航をしている事が考えられる。この辺りは日米史を行っている諸氏にお願いするとする。

  少なくとも巡業をしていたロイヤル江戸劇団は渡航が許されるタイミングでアメリカに渡り、その流れの一環として野球をやったと考えられる。アメリカでは丁度選手、チームのプロ化が問題視されていた頃だから、まだまだ選手の技術性などに力を入れていなかった頃と見ていい。

 相手がナショナル・アソシエーション、プロである事から現在でいう本格的な試合というものではなかったようで、5回まで、17-18という試合結果からも興行試合であった事は間違いなかろう。どちらかといえばプロ野球選手vs東洋の不思議団、みたいなもので、その焦点は勝敗ではなく「ジャパンから来た謎の集団が野球しにきた!迎え撃つはオリンピックス!さあ東洋の不思議と我が国が誇る精鋭、どちらが勝つか」というような、見世物興行的な所はあっただろう。また、ロイヤル江戸劇団は軽業集団であったという事だからそういう事にはうってつけだろう。

3、日本への影響

 残念ながら現在のところ、ロイヤル江戸劇団と野球の影響というのは示唆されていない。日本でも驚きの記事というもので、日本ではH・ウィルソンが野球を教授して以降、学生野球が本格的に台頭してくるというのは誰もが知る所である。また、中学(現在の高校)で野球が教えられるのはその学生野球で野球を経験してきた選手が教員などで教えていったからであり、東京や一部では行われていた野球が本格的に全国にまで広がっていくのは20世紀を待たねばならない。日本の野球が学生野球や教育機関からのトリクルダウンとして波及していく事を指摘されるのはこの辺りからで、実は最近の事でもない事を付記しておく。

 この後、早稲田大学野球部のアメリカ訪問(1905年)、野球害毒論(1911年)など野球はメディアの報告によって大きく動いていく事になる。現在のプロとアマ(独立リーグ除く)が形として出てくるのが1934年~1938年である事を考えるとそこにロイヤル江戸劇団の入り込む余地がなく、歴史の堆積と共に消え去ってしまった、と捉える方が自然である。

 しかし、少なくとも日本人が異国の地で野球をやっていたという事実というのは興味深く、またアメリカにおける社会史、文化史の一部に組み込まれて行くであろうことを考えるとそのスケールの大きさに驚かされる。たった一回の見世物興行が歴史となって浮かび上がってきたのだから。

 続報を待ちたいものである。

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