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【中編】目薬・1

(見たくないものが見えなくなる奇病の話です)

 今日、上司が見えなくなった。

 文字通り、つい今しがた、それこそ瞬き一つする前までそこに在ったはずの存在が、突然視界から消え去った。
 見えないにもかかわらず、なぜ「そこにいる」ことがわかったのかといえば、目の前に課長ご自慢の黒々ふさふさとした毛髪(ということになっているカツラ)がぽつんと浮かんでいたからだ。
私は口をOの字に開けたまま、そのつやつやした毛の集合体を凝視した。
「矢島ちゃん、聞いてんの?」
 カツラは、私がこれまで幾度となく耳にしてきた、苛々したような声で私の名を呼ぶ。
「ああ……リッチくんをもっとシュピーッと風のように動かす、でしょうか」
 地方銀行主催のコンペに提出するための、プレゼン資料の話だ。今日び、ゆるキャラが『ここがポイントだよ!』なんて吹き出しと共に動くパワーポイントだなんて、イケてないにもほどがある。落とされに行くために作っているとしか思えない。しかも“リッチくん”は、万札を頭に、福沢諭吉の体を胴体に持って生まれてきた、不憫すぎるキャラクターだ。自分なら生まれた瞬間に死にたくなる。だがもはや私には、イケてないパワポも、しゅぴっと動くゆるキャラもどうでも良い。
「そうそう。リッチくんは金丸銀行の大人気ゆるキャラなんだから、もっと押し出してかなきゃぁ」
 カツラが前後にフワッサフワッサと動く。
「じゃ、明日までによろしく」
上下に小刻みに揺れながら遠ざかっていくカツラ。フィルムタイプのマスカラがゴミカスとならぬよう、細心の注意を払いながら、人差し指の腹を使って目をこする。幸いにも、これまでの29年間は裸眼で生きてきた。安いプラネタリウムのようなチカチカした残像が消えるのを待ち、もう一度課長席をじっと見つめるが、やはりそこに人はなく、毛髪がぷかりぷかりと浮かぶばかりだった。

***

「ああ。そういう病気、今増えてんだよねぇ」
 シミだらけのしわくちゃの顔に、漫画みたいな小さい眼鏡をかけた眼科のお爺ちゃん先生は、私の話を聞くや否やあっさりと言った。診察室に入る直前まで、異常をきたしたのは眼か心か、受診すべきは眼科か精神科かと迷っていた私は、そのあっさりさに逆に動揺した。
 小学生の時、間違えて兄のタオルを使いものもらいになったときも、夏のプールに通いすぎて結膜炎を起こしたときも、このお爺ちゃん先生が治してくれた。あのときからお爺ちゃん先生はお爺ちゃんで、先っぽに軟膏を塗ったマドラーのような器具を震える手で操っており、いつか眼球を刺されるのではないかとこちらの背筋まで震えたものだけれど、地元にある眼科はこの一軒だけだったから、目に異常をきたすたび、しぶしぶここに通い続けていた。未だ診療を続けているところを見ると、まだ失明させられた患者はいないようだ。
 しかしこうなると、別の不安が生じてくる。――このお爺ちゃん、ついにボケてしまったんじゃないだろうか。
 猜疑心が顔に出てしまったのか。お爺ちゃん先生はしわしわの顔にさらにシワをよせ、心外だとばかりに「ホントだよ」というと、ぎっと音をたてて椅子ごとこちらに近づいてきた。
「あのね。あんたたちみたいなイマドキの若い人はさ。一人っ子が多いでしょ」
「兄がいますが」
「一人っ子が二人みたいなもんでしょ。甘やかされてさ」
 否定できないのが悔しい。
「だからさ、こう、視界の周りに、わーっとね。見たくないものばっかり並べられるとさ、目の方が拒否反応を起こして、見たくないものを見えないようにしちゃうわけ」
「はぁ」
 見たくないものが、見えなくなる。
そんなシンプルでばかばかしい病気が、本当にこの世に存在するのだろうか。
「だぁから最近増えてんだって。それも若い人ばっか」
「奇病とかじゃないんですか」
「ちーがうよ。これまでも結構来てんの。急に人や物が見えなくなった、何とかしてくれっつて」
 もう見たくない二度と見たくないって思ってるクセに、いざ見えなくなると不安になんだから勝手だよなぁとお爺ちゃん先生はぼやく。
「こないだも、花嫁衣裳が見えないんだ、お嫁さんがみんな裸んぼだっつって、顔真っ青にしたお嬢さんが来たよ」
「は」
「なんつったかな。う、う、うえでんぐぱら……」
「ウェディングプランナー?」
「それそれ。結局、しばらく仕事を休むことになったらしいけど」
 確かにウェディングプランナーがウェディングドレスを見られなくなったら致命的だ。そのうちタキシードや客が着ている衣裳まで見えなくなって、結婚式なんだか乱交パーティーなんだかわからなくなりそうだ。
「私も仕事、休むべきですかね」
「いや? あんたは仕事に差し支えなさそうだな」
 がっかりした。
このままドクターストップをかけてもらい、明日から堂々と仕事を休んでやろうかと思ったのに。今もっとも見たくないものは、ぶっちぎりでお札フェイスをはためかせるリッチくんだ。私は諦めきれずに食い下がる。
「上司が見えないなんて、仕事に差し支えありまくりだと思うんですが」
「いやぁ、大丈夫だろ」
 お爺ちゃん先生は震える右手で、ふさふさの銀髪をかき上げるような仕草をした。心なし、表情に優越感がうかがえる。男性にとってハゲているハゲていないは、中学生男子のいちもつ比べくらい重要な案件らしい。
「ヅラが見えてるなら、見失わないさ」
 ファッ、ファッ、というお爺ちゃん先生のひき笑いが、スピーカーでも通したかのように静かな診察室に響き渡る。

***

【矢島 つかさ様 ※特殊眼球薬につき、決して当該の病以外に使用しないこと】
 一。人や物は見えなくなるが、建物や乗り物などの公共物が見えなくなることはない。
 二。一日三回、目薬をさすこと。
三。見えなくなったものを探そうとしない。

 筆ペンでささっと書かれたそのメモを見て、誠太は納得したような呆れたような深い溜息をついた。その目には疑いの色が浮かんでいる。当たり前だ。長年正常に生きてきた同棲中の恋人が「突然上司が見えなくなる病気にかかりました」なんて言い出したら、私でも「おかしいのは頭じゃないか」と言いたくなる。
「その爺さん先生、本当に大丈夫なの? おかしくなっちゃってない?」
「たぶん」
「病名は」
「……それはちょっとわからない」
症状のインパクトが大きすぎて、肝心なことを聞きそびれた。
「でも、証拠に他の患者さんのカルテいくつか見せてくれたし」
「カルテ見せたのかよ。個人情報的に大丈夫?」
 でもそのウェディングプランナーのカルテはちょっと見たい、と言いながら、誠太は紺のネクタイを外し、真っ赤なラブソファの上に投げ捨てる。鮮やかなコントラストが腹立たしい。ソファはなるべく物のない状態にしておきたいといつも言っているのに、何年一緒に暮らしても、彼がその習慣を改めるつもりはなさそうだ。
「で、その目薬させば、課長は見えるようになるわけ?」
「ならない」
「ならない?」
 お爺ちゃん先生曰く、見たくないものを見すぎてしまった目は、埃を吸いすぎた掃除機のように、“ゴミ”でいっぱいになってしまっているそうだ。すべての埃を出しつくさないと、再び元の吸引力を取り戻すことができない掃除機と同様に、一度ゴミでいっぱいになってしまった目からは、すべてのゴミを排除する必要があるらしい。
「ほら、風邪ひいて熱が出たときって、無理して下げようとするより、上げ切っちゃった方がいいって言うじゃない」
「まあ腹下してるときも、下痢止め使って止めるより、そのままうんこ出し切って悪いもん外に出すべきって言うよな」
 明らかに信じていない口調で、即座に的を射たたとえをする。理解力と行間を読む力が高いのは誠太の長所だと思う。
「じゃあその薬は何なわけ?」
 見た目は、いつか結膜炎を患った時にもらったかゆみ止めの目薬と変わらない。
「見えなくなるんだって」
「え?」
 数時間前これを渡された時には、私も今の誠太と同じような声を上げた。
「嫌なものがどんどん見えなくなるんだって。世界中から嫌なものが全部消え失せて、視界がキレイになったら、もうささなくていいって。そのうちまた少しずつ見えるようになってくるらしいよ。あ、今日はもう三回さしちゃったから、さすところは見せてあげられないけれど」
 ジャケットとズボンをネクタイと同じ場所に投げ捨てながら、誠太はわけわからん、と呟いた。自分でもよくわからないことを言ってるなあと思うけれど、そう言われたのだから仕方がない。
「でも嫌なものが見えなくなるって、都合のいい病気だな」
薄々思っていたことを口にされ、脳みそが雨雲のようなもやりで覆われたような気がした。かわいそうだと言ってほしかったのだろうか。自分でもそんなこと思っていないというのに。
「あー、俺ももう決算書見たくない。数字が見えなくなればいいのに」
そうしたら俺の事、また企画部に戻してくれるかも。言いながらこちらをチラリと見た目には、卑屈さの中にもわずかな茶目っ気が含まれていて、私の気持ちはふっとゆるんだ。
「少しは心配してくれない? 他人事だと思ってるでしょ」
私は立ち上がると、晩御飯の献立を組み立てながらトイレに向かう。眼科と薬局に寄ったら、七時半を回ってしまった。今日は誠太も帰りが遅かったようで助かった。一緒に暮らし始めた頃、誠太は文具メーカーの企画部に勤めていて、今よりもずっと帰ってくるのが遅かった。自然と夕飯を作るのは私の役目になったけれど、去年経理部に異動になってからは、家に着く時間は私とどっこいどっこいだ。常備菜のブロッコリーのナムルに、さっき買ってきた豚肉をキャベツとニンジンをみそで炒めて回鍋肉風にしよう。
ドアを開けて真っ先に目に入るのは、ショッキングピンクの縁取りが目に眩しい、薄っぺらいスリッパだ。北欧風のスタイリッシュな模様は洒落ているけれど、私の好みではない。雑誌の付録だったのを、もったいないから使っているのだ。この家には、そういう理由で存在するガーリーな品物がそこここに在る。
「あ」
洋式便器の周りを見て、私は頬を緩めた。
「誠ちゃん、トイレの壁なんだけど、今日はちゃんと拭」
「あ、ごめん。拭かないでいいよ後で拭いとくから。ホント、いつもごめん、でも今日はそんなに跳ねてないし、たぶんきれい」
 慌てたように、早口で返ってきた誠太の言葉に、拭いてくれてありがとう、と続けようとした口がつんのめった。
そんなに跳ねてない?
たぶんきれい?
じいっと見つめたけれど、白(がやや黄ばんだクリーム色)いトイレの壁には汚れ一つついていない。「そんなに」というレベルではない。
これは「ない」だ、少なくとも、私の目から見る限りは。どれだけお願いしますと拝み倒しても消えてなくなる事のなかった、男性特有の尿ハネの跡。
「……見えないなあ」
 ぽつんと呟くと、何を勘違いしたか「ホントもういいからさ」と誠太の声が飛んできた。

 目薬の効き目は案外いいらしい。

(2へ続く)

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