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胡蝶の夢


以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。
喜々として胡蝶になりきっていた。
自分でも楽しくて心ゆくばかりに
ひらひらと舞っていた。
荘周であることは全く念頭になかった。

はっと目が覚めると、これはしたり、
荘周ではないか。
ところで、荘周である私が夢の中で
胡蝶となったのか、
自分は実は胡蝶であって、
いま夢を見て荘周となっているのか、
いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、
形の上では区別があるはずだ。
しかし主体としての自分には変わりは無く、
これが物の変化というものである。


[胡蝶の夢]
夢の中で胡蝶(蝶のこと)としてひらひらと飛んでいた所、目が覚めたが、
はたして自分は蝶になった夢をみていたのか、それとも今の自分は蝶が見ている夢なのか、という説話である。


夢を見ると、自分が自分以外の者になっているんだろうな、という感覚の時がある。
目が覚めたとき、似たような感覚に襲われる時がしばしばあるな・・・と改めて思った。
そういう感覚って、昔の人も現代の人も変わらないんだなぁってシミジミ思いましたヨ。



某所にて。
自分のプロフィールにある、
『ひらひらひら、、、』とは何ですか?と、
たまに訊かれるので…。
透谷の詩の、最後の一節を拝借しました。
それだけなんですよ。


『蝶のゆくへ』   北村透谷

舞ふてゆくへを問ひたまふ、
心のほどぞうれしけれ、
秋の野面をそこはかと、
尋ねて迷ふ蝶が身を。

行くもかへるも同じ関、
越え来し方に越えて行く。
花の野山に舞ひし身は、
花なき野辺も元の宿。

前もなければ後もまた、
「運命」〔かみ〕の外には「我」もなし。
ひらひらひらと舞ひ行くは、
夢とまことの中間〔なかば〕なり。




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