誇りと責任はセット、you know?


最近、フリースタイルラップにハマっております
そのため、わかる人にはわかるレペゼン青森の若き新星"Authority" のとあるフレーズをサンプリングさせていただきました

誇りと責任はセット

これはどういうことかと言うと、自分、及び所属する社会が過去起こしたことに対しては、誇りと責任をセットで持つべきではないか、ということが言いたいのです


最近、ドイツ人の留学生と難民問題に関する話をした

過去の戦争での責任、というか過ちがあるから強くは言えないため難民受け入れを拒否しづらい、それによって、国民からのイライラは増えている、と言っていた

へぇーー、そうなんだ
難民たくさん受け入れてドイツ偉ぇーなぁ、なんて思ってたけど、過去があるからしゃあなし、みたいな感じだったんだ、、

という感想をもった


ちなみに言うと、上記のドイツ人との会話は今回のノートの表題とは全く関係がない

ただ、留学生とも交流があるぼくの交友関係の幅を自慢したかっただけだ


話を戻そう

日本が過去起こした戦争について、責任ばかり感じるのではなく、誇れる部分もあるのだからそれも同時に学ぶべきだ

アメリカは勝ったことを誇るだけではなく、勝ちに至るまでに起こしたことに対して責任を負うべきだ

もしくはその逆も同じ


最近歴史を学び直しているときに思ったことである


これは何事にも言えると思う

何かを誇るときには、そこに至るまでに費やしたもの、迷惑をかけたこと、もしくはその後の行動においての責任も同時に負わなければならない

例えば、大学受験に合格したことが誇らしいことだとする
そしたら、そこに至るまでにサポートしてくれた家族が払ってくれた総合的なコストに対して、そして誇るべき大学に入学したのであれば今後はその名に恥じぬ、分相応な行動をするという責任感を持つべきだ
受かったこと如きで鼻高々になってはいけない

責任を感じているときは、何かしら挑戦をしていたり、譲れないこだわりのようなもの貫いた結果に起こることだと思う。そこに至るまでには誇るべきこともあるだろう、なので卑屈になって責任ばかり負い謝罪を繰り返すのではなく、同時に、誇るべきところは誇ってもいいと思う

例えば、受験に失敗したとする
そしたら、自分の限界にチャレンジしたことや、受験勉強を始める前から後までの偏差値やら得点の上がり幅なんかは、全くもって誇れることだ
落ちたからといってあなたの全てが悪かったわけではない

なにか1つの出来事で全体を悪く、もしくは良く見るのではなく、ここは良い、でもそれは悪い、という部分わけをして物事を評価していきたい


という意味の

誇りと責任はセット

ということでした


D判定の大学にストレート合格の後、それを自慢げに地元民に言いふらし、挙句1留と1年間のフリーターホームレス生活をしていた、責任感も誇りもないホームレスが思う理想論でした


はやく誇りのある人間になりたーーい

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