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カミュ『異邦人』にみる、社会に求められる振る舞いを拒否するということ

■カミュ『異邦人』にみる、社会に求められる振る舞いを拒否するということ

先日、ルキノ・ヴィスコンティ監督『異邦人』を視聴したことをきっかけにアルベール・カミュ原作の方を読み返していた。過去に読んだ時の感想と言えば、「太陽が眩しくて、ってなんかかっけえ……」と思うに留まったが、今読んでみると現代の社会状況と重なるところもあって、思うことがあったので書いてみたい。

まずは『異邦人』の大まかなあらすじに触れておく。主人公であるムルソーは、母が死んだ翌日にも関わらず海水浴へ行き、女と身体の関係を結び、喜劇映画をみて笑いころげ、友人の女出入りに関係して遂には人を殺害し、動機について「太陽のせい」などと答える。判決は死刑であったが、自分は幸福であると確信し、処刑の日に大勢の見物人が憎悪の叫びをあげて迎えてくれることだけを望む。

この『異邦人』を読んで、わたしは主人公ムルソーや周囲の人間がなにを基準に決断をしていて、自由を感じているのかについて考えを巡らせた。それは一応ムルソーの行為だったり、周囲のムルソーに向ける言葉だったりから浮かんでくるわけである。

とは言え、ムルソーは拳銃の引き金を引いた理由を「太陽のせい」と言っているように、決断の理由が明確にわかっているわけではない。けれどこれは決断の理由が描かれていないのではなく、言い方を変えてみれば「人間が決断をする理由なんて明確ではない」ということが描かれているのではないだろうか。

それは「自分の行為や言動はすべて自分自身で決断している」と思いこみがちな私たちの常識に激しく揺さぶりをかける。ここでは、社会や常識が要求する「振る舞い」とそれを「拒否すること」について考えてみたい。


■社会に求められる振る舞いを拒否するということの決断と自由

1955年英語版『異邦人』にはカミュによる自序が記されている。そこでは次のようなことが述べられている。

母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったか、それは彼が嘘をつくころを拒否したからだ。

本編冒頭の「きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。」からわかるように、ムルソーは母が死んだことを強く嘆いて見せたりはしない。そして、裁判中にはそのような態度を根拠にして、ムルソーは人格を強く非難されることになる。「大切な人間の葬儀では涙を流すのは当然だ」と考える人々の思う「人としてあるべき姿」を逸脱しているムルソーは死刑になって然るべきという雰囲気が醸成されてしまう。

また、裁判中、検事はムルソーについてこのように言う。

悔恨の情だけでも示したでしょうか? 諸君、影もないのだ。予審の最中にも、一度といえども、この男は自らの憎むべき大罪に、感じ入った様子はなかったのです。

ここで気になるのが「自らの憎むべき大罪に、感じ入った様子」という箇所なのだが、たしかにムルソーは「感じ入った様子」さえ見せていれば社会の求める「人としてあるべき姿」を達成できたのかもしれない。しかし、彼はそれを拒否した。ここにひとつの決断があり、彼の獲得した自由があった。


■どうしてムルソーは「異邦人」に写ったか

たしかに、ムルソーは社会に求められる振る舞いを拒否して死刑になった。それは彼が裁判中に投げかけられた言葉に表れているのと同じように、一般的には愚かなこととして写るかもしれないし、そもそも、彼自身も死を強く願っていたわけではないだろう。

しかし、彼は「求められる振る舞いを拒否する」という決断をしたことによって「嘘をつかない」という自由を手に入れたと言えるのではないか。

つまり、社会に求められる振る舞いに応えるという当たり前の行為を拒否したことで、ムルソーはムルソーの「わたし」なる領域を守り、それゆえ当たり前を守る社会の人々からは「異邦人」として写ったのだろう。


■わたしたちの身近に「異邦人」はいるし、わたしたち自身も「異邦人」になり得る。

これまでの話はなにも小説のなかの物語に留まらない。わたしたちの身近にも「異邦人」はいるし、わたしたち自身だって「異邦人」になり得るのだ。

ムルソーは葬儀で涙を流すことや、殺人の理由を明確にすること、反省した素振りをみせることなどを拒否した。それは並外れた勇気や覚悟の要ることに思えるが、背後には社会に対する徹底的な諦念があったとは考えられないだろうか。社会への諦念のもとに発せられる言葉や向けられる行動には倫理が欠けており、社会から見れば「どうなったって構わない」という無敵の状態にさえ映る。

社会に対して期待を持てなくなった人間は社会を過ごしやすくするために敷かれた規範に従順になるか、そうではない自分の規範に従うようになるかの二者に別れる気がしている。前者は皮肉ながら社会に歓迎されることになり、後者は自分の規範が社会の要望と近い場合にのみ許され、そうでない場合には「異邦人」として迫害されるのだろう。

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