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何者かになりたいわけではなくて、僕は僕を取り戻したい。

■「人間のやわらかい部分」と「もののあはれ」

数年前、大学の講義で観察映画を通じて「人間のやわらかい部分」について考える時間があって、その時のことを思い出した。

講義後、先生に話しかけたとき、本居宣長の詠んだ「事しあればうれしかなしと時々にうごくこころぞ人のまごころ」は「人間のやわらかい部分」と通じているのだと言っていたことが、深く印象に残っている。

ここで言う“まごころ”とは、誠意とかあたたかい心といったものではなくて、事に触れることで、嬉しいときは嬉しい、悲しいときは悲しいと純粋に機動するこころのことを指している。

「人間のやわらかい部分」は、動いてしまうことを抑えられないほど頼りなく、だからこそ人間らしさの宿る部分なのかもしれない。

■僕は僕であることができているだろうか?

「猫が猫であるように 犬が犬であるように 全身全霊僕でありたい」

これは、NHK教育テレビで放送していた『ジャム・ザ・ハウスネイル』の歌詞。一部ではなくて、これで全部。たったこれだけの歌詞と音数の少ないリコーダーのみによって曲が構成されている。あまりに強気だ。

「僕でありたい」。

きっと小学生にだって理解できる、極めて平易な言葉だ。それなのに、お湯を張ったバスタブに固形の入浴剤を落としたときのように身体の奥底にドポンと鳴り響くのはなぜだろう。こんなに簡単に思えることが、歳を増すごとに困難になっていく。

「僕である」ことは、人の迷惑を考えず自由気ままに振る舞うことではない。

嬉しいときは嬉しいと感じること、悲しいときは悲しいと感じること、おもしろいときはおもしろいと感じること、つらいときはつらいと感じること。

ひとりになってしまったとき、焦って誰かにもたれかからないこと。誰かが救いの手を差し伸べてくれたときには、強がらずに握り返し、その体温を噛み締めること。弱さや醜さにある、自分の存在も見守ること。

事に触れて感じたことを、無かったことにしないこと。

僕が僕であるということは、きっとそのようなことだ。言葉にするのは簡単なのに、体現するのは難しい。もしかすると、困難にしているのは自分自身なのかもしれない。こころのどこかで、僕になるのが怖いのかもしれない。等身大の僕、ありのままの僕が、頼りないことを知りたくなくて、小刻みに肩を震わせ怯えている。

■僕は僕を取り戻したい

社会で生活を掻い潜っていくなかで、学校から教育を施されていくなかで、周囲に期待される自分と実際の自分が葛藤をするなかで、いつの間にか僕は誰かの望む「僕」になろうとしていたのかもしれない。

親や友人の機嫌を入念に伺う僕も、テストで高得点を取ろうと励む僕も、時給1000円のなかで理不尽に耐えて不平不満を漏らさない僕も、その大部分は誰かのための「僕」だった。そうしなくちゃならなかったから、避ける術を知らなかったから、みんながそうしていたから、僕は僕をすこしずつ剥ぎ取って規格品に近づいていった。

そんななかでも、時折隅っこのほうで所在なさげに顔をだす、頼りない「僕」がいる。感情を激しく揺さぶる映画や文章、音楽と出逢ってしまった瞬間、目の前にあるこころと手元にあるこころが交差した瞬間、人間のやわらかい部分がぎゅっと締めつけられる。ほんの僅かながら、僕を取り戻せた気がする。

もう何者かになろうとしなくていいから、僕の目で見渡して、僕の耳を澄まして、僕の鼻で嗅いで、僕の肌で感じて、僕の足で踏み締めて、僕の手で掴み取りたい。そうして、僕は僕を取り戻していきたい。

今日から、僕をはじめたい。

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