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『Kのこと』

「駄目だ。お前にはまだ葛藤が足りない」
    そう言ってKの祖父はKからペティナイフを取り上げた。魚の捌き方は知っていた。Kの祖父は慣れた手つきで真鯛を捌いた。Kは祖父と共に黙ってそれを船の上で食べた。
    翌日、祖父はKの母親に連絡した。再婚した新しい父親が車で迎えに来た。Kは実家に連れ戻された。
    二年後、Kは隣県の叔父の家に居候した。Kが頻繁に高校を休んでも叔父は何も言わなかった。学校に行かない日は叔父の畑仕事の手伝いをしたり本を読んだりして過ごした。
    何度目かの三者面談のとき、親の代わりに叔父が学校に来た。
「世間ばかり見ていても、世界は見えませんやね」
    何かの拍子に叔父はそう言った。教頭と担任教師は呆れたような顔をしていた。一週間後、Kは自主退学した。
    Kは叔父の家に居候し続けた。アルバイトを増やし、金を貯め、ビザを取得してオーストラリアに行った。
    ステイ先の家族はKにとても親切にしてくれた。皿洗いの仕事をしながら英語を勉強し、家では家族の子どもたちと遊んだ。
    帰国する二週間前に、職場の人から鹿狩りに誘われた。ぶかぶかのハンディングキャップとベストを着せられ、迎えにきたジープに乗り込んだ。その人はいつも無口で、樹齢の深い木のような顔をしていた。
    樹齢は車を降りて森の轍から獣道に踏み込んでいった。Kは樹齢の背中を追いかけた。
    ふと樹齢が立ち止まり、伏せろ、と合図をした。Kは速やかに従った。
    銃声がした。目の覚めるような炸裂音だった。駆けていく樹齢をKは追いかけた。
    ようやく追いつくと、斃れた鹿と、ひざまずいて十字を切る樹齢がいた。樹齢はすぐに血抜きをはじめた。鹿はまだ温かかった。樹齢の瞳に葛藤は見いだせなかった。死んだ鹿の目を見ながら、亡くなった父も同じ目をしていたのだろうか、とKは思った。
    帰り道、樹齢はKにむかって何かを言った。Kはなんとか発音を覚えて、ステイ先の家族に同じように話して意味を尋ねた。『物事は常に循環している』というような意味だった。
    帰国したKを待っている人は誰も居なかった。実家はどこか知らない場所へ引っ越していた。
    Kには帰る家も、金も、友人も、何一つなかった。
「駄目だ。お前にはまだ葛藤が足りない」
「世間ばかり見ていても、世界は見えませんやね」
『物事は常に循環している』
    Kには言葉だけが残った。

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