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CRY!CRY!!CRY!!! 朗読劇で気付いた自分のこと

2019.9.14 朗読劇 CRY!CRY!!CRY!!! を鑑賞した。
収容施設に入れられ、殺処分を待つ犬たちの物語なので、これはもう号泣必須なのは誰が見ても明らか。
都内の小さなカフェで開催された劇。大の大人が一人で鑑賞し、一人で号泣する様を、披露するのは気がひける。しかも演者側に知り合いがいるのも気恥ずかしさを感じる。
そこで何とか泣かずに観て帰ろうとした私が気付いた、私のことを記録しておきます。

恥ずかしいから、感情はお持ち帰り

衝撃が大きすぎて、自分の感情の処理方法が理解できた絶好の機会だった。ものすごく処理に手間取ったが故に気付くことができた。

うちには猫が三匹いる。この子らがこの劇の主人公だったらと思うと、殺人もできるんじゃないかと思える。これで号泣しない奴なんかいない。
しかし、やっぱり大人だから外出先で号泣とか恥ずかしいし、かといって私の朗読の先生がいらっしゃるから、号泣してたらきっと感動で泣いてくれたことにお礼言われるだろうし、言われたら嬉しいけどやっぱり恥ずかしいし、この後、電車乗って友達のお店に行かなきゃだし。
とにかく色々恥ずかしさが先立って、私は号泣を避けることにした。そんなもったいない劇の見方はないだろうと思うけど。

感情も情報も、全て心の箱に入れて持ち帰る

そんなもったいない劇の見方でも、自分の特性に気付くきっかけになったから、捨てたもんじゃない。

直後にアンケートを渡されて、何も書けなかった。どのキャラクターが、シーンが、台詞が、印象に残っていますか?
本当は何も書きたくなかった。印象に一つ一つ感覚がつけられないほどの迫力。どのシーンも印象深く響く演出。なんとかひねり出したアンケートの回答は、小学生でもこんな馬鹿げた回答しないという酷いもの。

それでも全部、覚えてる。
家に持ち帰って翌日丸々一日味わえるほど、大きな心の記憶箱に感動も情報も全部を仕舞って持ち帰った。

味わうことは感情は文字に変える作業

感情以外の情報部分が薄れてしまうと、文字や言葉に置き換えることは難しくなっていく。言葉にできなかった情報部分を失った感情も、やがて薄れて消えてしまう。

私の記憶箱はおそらく大きい。そう思う理由は、記憶箱、特に感情を仕舞う部分を持たない人がいるということを知っていたから。その人はその場で思い切り感動を味わい、表現し、その後は情報として箱に仕舞っておくので、再度箱を開けて味わうことはない。
感情の味わい方は人によってタイムラグ付きで差がある。

私の場合、感情をその場で感じ、持ち帰って感じ直し、言葉にすることで味わうので、言葉にする時間を必要とする。実は私は味わい直せること、味わう時間が要るという自覚がなかった。
今まであまり芸術鑑賞で感動するということがなかったのは、その場で感じるだけか、せいぜい持ち帰って「楽しかったな」と思い出して終わっていたからに違いないと思う。

書けるようになりたいという、願いと一致した気付き

文字にするには、情報の取り出し方から並べ方までがアウトプットに必要な技術。その技術がないと、私はその時の感情にどっぷり浸かって、あぁ浸かったなで終わってしまう。

大きい箱に、多くの情報。劇中の出演者の表情、動き、声の響き方にひと動作だけで状況を作り上げる演出。話の内容だけでなく、不思議そうに覗き込みながら外を通った通行人や鳩のことまで仕舞ってある箱。だから、持ち帰ってしっかり味わい直せる。

私は今、何者になりたいという希望はないけど、とにかく書き物について学びたいと思っていた。
書くという行為は頭の中のものをアウトプットすること。頭にある情報には感情も含まれているから、たぶん、この記憶箱の取り扱いを無意識に学ぼうとして、着々と学べる方向へ進めている。

毎日、何かしら気付くことがあることが楽しい。

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