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インディー

 僕らはインディーゲームを製作したのだ。
 インディーであることは自由と同義である。僕らはメジャーと違って、何者にも縛られず、柔軟で、拘って、採算度外視でなければならない。
 それでも嬉しいことに拙作『NEEDY GIRL OVERDOSE』は、規模で言えばたいへんなモノである。通常のアニメ化作品よりも勢いがあり、インディーとメジャーのせめぎ合いは何度かあった。
 が、インディーな生き方のまま存続させることを選択したのです。とにかく自由でありたかったから……ネオグランゾンに乗ってスパロボでラスボスやってるときのシュウと同じ。「自由でいたい」だけ。
 具体的に言えば、この規模でなお原作者である僕が全てを通し、判断する。企画を一から立てる。インディーは作品と製作者との距離が近く、僕らが楽しそうに作ってるかどうかはファンから見える。こちらが苦しみ、しかしその苦行も愛しく感じるくらいにイベントに魂を込めているのかダイレクトに伝わるのだ。そもそも僕は毎日日記を書いているので、そこで気合いの入れようはわかるし。

 ニディガ展2(ツー)の混雑予想は分かりやすい例でしょう。今回の秋葉原の展示ではチケット制にしているものの、無料展示スペースは開放してある。「中身はチケット制ながら物販は誰でもふらっと入れる」は、このアキバCOスペースでは今までなんら問題のない形態だったのですが、今回はいろいろ考えて少なくとも人が多い土日は確実にチケット組から購入できるよう、現地のスタッフたちと相談した。
 何故こうなるかと言えば、「インディーのまま大きくなったら」からで、本来これくらいの規模になるとどんどんイベントは外部委託され、既存の番組形態・イベント形態をとっていく。原作者が企画まで関わることはほぼ無い。が、ニディガの場合はそれらを全て僕らが継続して行うため、わけのかわからん事態となる。

 たとえば、今回の展示にあたり「遊園地のゴンドラ」を持ってきた。今夜の生放送でもっと詳しく説明する……というか、今から僕もめずらしく早起きしてまで展示の準備を夜の生放送までしていくのですが、「広い会場に遊園地とゲームセンターを作って夢のトリップを体験しよう」と決めたものの、いざ現地にゴンドラを始め次々と「普通は目の前に無いもの」、他にも大量のブラウン管やエレメカが運び入れられてくる様子はさすがに驚く。企画が外部に委託され、「とにかく仕事をこなす」社会人の関係者が増えれば増えるだけ、作品は不自由になっていく。
 「これはもはやゲーム作品の展示でなく芸術だ」とプロデューサーは言った、手前味噌だが、こりゃもう大変なことだ。とつぜん秋葉原に遊園地のゴンドラが出現してるだけでも面白い。真っ暗な空間にポツンと巨大なゴンドラが置かれた様子は、どうぶつの森初心者の部屋みたいで迫力があった。これから一日かけて、ダークでメルヘンな遊園地を創り出す。もちろん、21時からの生放送も観てね。今回もめちゃくちゃすごいぜ。最高の時間にすると約束する。そっちはそっちで直前までスタジオに寝泊まりしながら準備したきたんだ。僕はニディガの世界観とコンセプトへ一切の手を抜く気はない。

 番組にしろリアイベにしろ……というか、本来最初の展示内容は、既存のイラストやグッズを並べるタイプの通常のポップアップイベントだった。それはメジャーな作品のやることで、僕らインディーな存在は、大規模作品のガチガチな大人たちが悔しがるようなことをし続ける義務があるため「ここに遊園地を作ろう!と提案したくらいで、原作と各企画がギリギリ連動してやれる今に全力を懸けている。ゴンドラだけで何十万するが、「遊園地にはゴンドラがあるだろう」と納得して予算を割いてもらった。等身大のあめちゃんがそこにいるんだから、ゴンドラへ座って一緒に写真を撮ってあげないと、彼女がぽつんと立っているだけで可哀想だし。
 インディーってのは、要するに「ゲーム」とか「音楽」ではなく、魂の形の話で、「型にハマった大人たちの言いなりにならねえ!」という、子供じみた痛々しい若さの叫びである。さすがに今回は2つを並行して進めたから疲れたけど……なんにせよ、これは宣伝でも我が子かわいさでなく、今夜の生放送やニディガ展2(ツー)は、通常じゃできないことを何重にも行なっている。ファンが楽しさで現実を忘れ、現実に囚われている大人が歯を食いしばって悔しがらせる。
 お兄ちゃんはね、好きな人を好きでいるために、その人から自由でいたいのさ。

 

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