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森で暮らすように、東京で生きる

渋谷のTOHO シネマズのチケット券売機に並ぶ人混みの中で、尿意を極限まで我慢して並ぶ男がいた。

ぼくだ。

二列隣の券売機の最先端では、高齢のおじいちゃんがシステム操作に困惑した様子で右往左往している。
後ろにはSPY×FAMILYのグッズを持った若者の群れが、下手に助けを求められない程度の適切な距離を探っていた。

ほどなくして、販売スタッフにおじいちゃんは連行され、券売機はエラーになり、若者たちは別の列に並び直すことを余儀なくされた。

あの列じゃなくて良かったと内心ホッと息をついたのに、

「これ代わりにやってくれない?」

と前方から不穏なお声が飛んできた。

券売機をチョコんと指差し、小さな老躰でこちらをキョトンと見上げるおばあちゃまの眼はこちらを向いているではないか。
都会で見知らぬ他者にタメ口でものを頼むのは、大体高齢者と相場が決まっている。

どうやら、シネマイレージカードが上手くスキャンされないらしい。

面倒臭さ+尿意=49%
親切心=51%

コンマ数秒の脳内戦争は辛うじて後者が勝利を納め、スタッフにお願いすることをせず、自力でおばあちゃまのシネマイレージカードサポートを遂行することに決めた。

発券のプロセスを一からやり直してみると、あれよあれよという間にチケットGET。

ありがとう〜とちっちゃな声を残して去っていくおばあちゃまを見送り、いそいそと自分のチケットも買う。

めでたしめでたしと振り返り、気づいたことは二つ。

第一に、待ちに待った映画「PERFECT DAYS」の上映時間125分を込み上げる尿意を堪えながら鑑賞しなければならない現実。

第二に、おばあちゃまとぼくの後ろに並んでいた人たちから適切に距離を取られていたことだ。

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素晴らしい映画は、時間も尿意も忘れさせてくれる。
「PERFECT DAYS」を鑑賞して感じたことは単に膀胱に優しい映画というだけではない、不思議な魅力に溢れていた。

森や山で暮らすように、都会で人はかくも美しく生きられると、東京に住む多くの人が見落としていた暮らしの可能性が余すことなく映像に散りばめられている。

東京をはじめとする大都市は、資本主義によって生み出された生活様式の集積だ。
優秀な労働者を密に囲うためのたかーい建築物が所狭しと立ち並び、経済的価値の乏しき物をなるべく目の届かないところまで追いやる。

経済合理性を最大限まで高めることで成り立つ生活こそ、都会暮らしの醍醐味だ。

東京で暮らす人々の多くは、メラメラと頂を目指す。あるいは、駆り立てられる。
登れば登るほど羨望が集まり、尊敬され、多くのケアを賜る機会を掴むことができるから。
最上の都会暮らしは、極限まで土から離れた生活とも言い換えられる。
ところが、土から離れすぎたままだとどうやら人間はおかしくなることが、ここ数年で明らかになりつつある。

「人間らしく生産性を高める暮らしとは、こんな都会で暮らすこととちゃう。自然に囲まれて暮らすことがフィジカル的にもメンタル的にも一番や。」

日々の業務に忙殺される自分をウェルビーイングな視点で捉え直し、コロナ禍で”開疎化”なるバズワードが生まれたことにより、鎌倉や江ノ島方面へ移住する人が急増した。

ぼくの周りでも自然に囲まれて生活したいとのことで、バタバタと引っ越しが増えた。

10人くらいのウェルビーイングなお家に遊びに行かせてもらったものだ。

だけども、2回くらいご自宅に遊びに行かせてもらったくらいのタイミングで、パタパタと東京にみんな帰ってきた。

「なんもない!不便!」

と口を揃える。なんなら、自然の暮らしの中でメンタルブレイクした人も少なくなかった。

都市の生活様式が当たり前になった(資本主義を内面化した)人々に、自然の暮らしは酷みたいだ。

自然は人間をケアしない。
自然は意図して何かを与えてくれる訳ではない。ただ自然とそこにある。
人間は自然によって生かされているのではなく、ただただ自然を使って身勝手に生き延びてきただけだ。
自然に人間を生かそうという意図はない。
森や山を護ることを生業とするこだまのような精霊がいるとすれば、
「人間は自然に感謝より先に謝罪をすべきだ」とたしなめられそうだ。
「毎度、勝手に使わしてもろてすみません、堪忍してや。」くらいが筋であろうか。

我々人間ができることなど、自然をケアさせてもらうことによる埋め合わせくらいだが、もう手遅れ感も否めない。
自然に癒されるという発想は、都市生活の内面化から生まれるものであることを忘れてはならない。
あまりにも自然が人に厳しかった反動で生まれたのが都市であり、人を楽に甘えさせることで発展してきたのもまた都市の性だ。勿論、楽して甘やかしてもらえるのは経済力があればの話である。

都市は厳しいというより、冷酷です。

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「PERFECT DAYS」は、ケアされたい人々で溢れかえる東京の中で、ケアする喜びを浮き彫りにする映像体験だ。

ケアする喜びを知る初老の平山は、ジャングルに差し込む一筋の木漏れ日の如く観てるだけで非常に癒される。

都市の中に紛れ込み、次第に記憶を失って自らを人間だと思い込むようになってしまった、元森の精霊みたいな男。

平山は色んな意味で、人間離れしている。

まず、顔。

演じる役所広司のあの顔面造形の美しさは筆舌に尽くし難い。
匠の仏像彫刻師がはじめてギリシャ彫刻に挑戦して生まれたような横顔は、
歳を重ねるごとに美しさが際立つ、反資本主義的な顔立ちだ。

良いのは顔だけではない。

人間の話し言葉にまだなれていないのか口数は少ないが、仕事を全うする背中は雄弁だった。
彼の無言の仕事への矜持は、あたかもP・F・ドラッカーの有名な逸話で登場する3番目の石工を彷彿とさせる。

「何をしているのか」と聞かれた3人の石工のうち、1人目は「これで食べている」、2人目は「国で一番の仕事をしている」、3人目は「教会を建てている」と答える。

現代の経営[上]

「なんて楽しそうな仕事なのだろう」とその美しい仕事ぶりに惹き込まれ圧倒される。
人間離れしたあの仕事の美しさを生み出すのは、一体なんだろうか。

手かもしれない。

仕事をする場面の多く、つまり公共トイレの便器付近で平山の手は大抵地についていた。
他者の排泄物に塗れた地面でも平山の手は怯まない。

手を当てる。手を汚す。手で探る。手を下す。手をかける。

汚れることを厭わないあの手を綺麗だと思える人が増えると東京にもきっと体温が戻る。
あれほど稀有で美しく手がかかった仕事を労働市場は適切に評価できない。
平山よりも二桁も三桁も違う報酬をもらう人間がこの世に存在していいものなのだろうかとさえ思う。
いや、たかだか人間が作り出した”市場”という仕組みで精霊の仕事を評価するなんて発想がおこがましいのかもしれないが。

いくら精霊と言えど、仕事以外の時はきちんとそれなりに人間っぽく振る舞っていたのもまた可笑しく愛おしかった。

銭湯ではゴシゴシと老躯を労わり、夜は酒で肝臓をちょこっといじめる。
人間に溶け込もうとなれない様子で会釈したり、年甲斐もなくキュンとシュンを繰り返したり、子どもだった人間の成長にドギマギする。

そして毎日、息抜きで草木を愛でながら、手を抜かずに人間たちの住む都市のケアをする。

森をケアするように、街を生かす。

ケアの隙間に人間である自らの生も営む。

それが平山という限りなく人外に近い男の日常だ。

この映画を観て、平山のように暮らしたいと思う人もいるかもしれない。
監督のヴィム・ヴェンダースは「平山みたいに生きたい」と思いながら撮影に臨んでいたそうだ。

平山の魅力は、日常を美しく生きようなどと微塵も思っていないことに尽きる。
ただ日常の美しさを忘れない彼の眼差しが、ぼくの目にはひどく眩しく映った。

鑑賞後、今年の自分は美しい仕事ができただろうかと振り返る。
手間をかけた仕事をするには、暇が必要だ。
おばあちゃんのシネマイレージカードのサポートに一瞬逡巡する程度には、ぼくの内面の都市化も進んでいる。
それでも、ぼくは東京という街が大好きだ。
森を愛でるように、東京の街を愛でるには何ができるだろうと考えて出た最初のアイデアは、トイレの清掃がしやすいように一歩前に出て用を足すことだ。

そこで思い出したかのように膀胱が咆哮をあげたので、男性トイレに向かった。

清掃中だった。

この御恩は100万回生まれ変わっても忘れません。たぶん。