悔しくない、情熱もない、羨ましい。

活躍してる人や成功してる人を見ると、すごいなぁ、羨ましいなぁ、よりも「私は何をやっているんだろう」が一番の比率で襲ってくる。
自意識過剰と言われればそれまでなんだけど、なぜそう思うかを探ってみたくなる。

 よく見るピラミッド図で、下級中級上級と分けられているとしたら、ある分野において私は上級に位置すると思う。
 でも上級の中のほんの数パーセントの"すごい人"と私のような上級の中辺りの人間との間には、手も足も出ないくらい大きい壁がある。いや、壁というよりはまさに次元が違うのか。
 それについてうっすら気づき出したしたのが中学生くらいだったか。 
 小学生に上がる前から、ある分野でちょっとした才能というか能力があった私に気づいた母親は、その才能を伸ばそうとあらゆる事をしてくれた。お陰でその分野で進学し、卒業後はそれが生業となって今に至っている。
 確かに理解する前に瞬時にわかる、という感覚はあった。楽しくて没頭してスルスルと伸びた。地元では一番になって、地区大会でも一番になって、私は全国大会の常連となった。その頃にはもう楽しくもなんともなかった。母親に対する怒りが芽生え日に日に大きくなり、厳しい先生も嫌いだった。でも辞めるという勇気もなかった。なぜなら自分には才能があると思っていたから。
 でも、ここまで。元々の能力だけでハッタリが効くのはそこまでだった。
 全国大会で一番になる人または二番になる人。これはもう別格だった。ハッタリは一つもなかった。確実だった。真実だった。ちゃんと掘り下げて磨き上げて、それでも満足せずもっとよくなるのではないかと、彼らは私が「めんとくせー、もうこれでええやん。」というそれを楽しんでやっていた。
 私はニセモノだ、と突き刺さった。

 先生や周りの大人は私を「やれば出来る力があるのに!なぜもっとやらない?」と叱咤激励した。「悔しくないのか?一番になりたくないのか?もっと上手くなりたくないのか?」と焚き付けられたが、今だからハッキリ言おう。「悔しくない。羨ましい。情熱はない。」
ここはね、努力じゃどーにもならないんですよ。そーゆー気持ちって言われて変わるもんじゃないんですよ。
 でも事なかれ主義でバランス人間の私は「悔しいです。一番になりたいです。」と答えていた。目の前のその人が望む答えを。  
 少しは頑張ってみる。でも続かない。気がないんだもの。やりたくない。でもやらなきゃという思いは常にある。遊んでいても「こんな事してていいのか?やらなきゃいけない事があるのに」という思いがつきまとう。でもやらない。なぜ私はやれないのか?なぜそれにもっと興味が持てないのか?
その思いがその後ずっと私につきまとう事になる。

つまり、私は「悔しいです、一番になりたいです」という人間にならなきゃいけないという思いがまだどっかにあって、そうなれない自分を未だに裁き続けているところがあって、それが冒頭の「私は何をやっているんだろう?」と思わされる原因に繋がるのではないかと。
「悔しくない。情熱もない。」でも「羨ましい。」
そこに私の葛藤があるんだと思う。

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