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橋下徹の例の発言について思うこと

 

「●にたかったら一人で●ね」という言葉について、そこかしこで論争が起こっています。今日はこれについて書いていきたいと思います。

 今までもこの手の議論はあったのですが、最近だと、橋下徹が「●にたければ一人で●ね」と言ったのが話題です。

 もちろん橋下は「弱者に対して社会全体で支えていかなければならない」「最終的決断としてこの世からいなくなることを選んだ場合」ということを前提としています。

 その上で、「どうしようもない場合は、他の人間を巻き込まず一人でいなくなるべき。そこを誤魔化してはいけない」と発言しています。

 橋下の意見はシンプルです。「●ぬなら社会に迷惑をかけずに●ね」。そこには一定の説得力があります。しっかりと前提を置いたうえで話していますし、内容的にも、決して彼は間違ったことは言っていない。

 要は他人を巻き込むなということなのですから。

 しかし私は、「内容自体は間違っていないものの、この発言を公共の電波に乗せるべきではなかった」と思っています。

 以下、そのことについて自分なりの考えをまとめていきます。

・そもそも「一人で●ね」と言われて、素直に一人で●ぬやつはいない 

 登戸での事件や京アニの事件など、凶悪犯罪をする犯人は、何らかの形で「社会に恨みを持って」いたり、精神的なところに異常を来している場合が多い。

 さて、今回、橋下徹は誰に向かって「一人で●ね」と言ったのでしょう?

 慎ましやかに暮らしている一般人に言えば、「そんなの当たり前でしょ」と一蹴されます。

 では彼は、これを、凶悪犯罪をする可能性のあるような人に向けて言ったのでしょうか?

 凶悪犯罪をやるような追い詰められた人に、果たしてそんな意見が通るでしょうか。「わかりました。一人で●にます」という流れになるとでも思っているのでしょうか?

 マスメディアでコメントをする以上、コメンテーターは、自分の発言に責任を持って、そのメッセージを人々に届けなければなりません。

 正直なところ、私が見たところでは、「彼は誰に向けてこのメッセージを伝えたかったのだろう」という虚しい思いがするだけでした。メッセージを伝える対象がいなければ、その言葉は宙を舞って、不特定多数の人間を傷つける刃になってそれで終わりです。当たり前ですが、居酒屋で発する言葉と、テレビのコメンテーターとして発する言葉は、まったく別のものなのです。

・「綺麗事」は本当にすべて排除しなければならないのか? 

 橋下徹は「綺麗事で誤魔化してはいけない」と言っています。「●にたかったら一人で●ね。綺麗事は言うな」と。

 でも、本当にそうでしょうか。

 真実なんてものはおそろしく残酷です。だからこそ人は、昔から、美しい歌を詠んだり、物語を作ったりして、そうした「憂き世」をやり過ごしていたのです。歌も、物語も、全部綺麗事です。フィクションですからね。

 たとえばブルースなんていう音楽は、黒人奴隷が、日々を辛苦を紛らわすために生まれたものです。それがロックなんかに繋がって、そのままカウンター・カルチャーとして機能してきたという背景がある。

 人々は、昔から、そうした「綺麗事」に幾度となく助けられてきたのです

 もちろん綺麗事だけが正しいとは言いません。しかしながら、橋下徹のように「綺麗事は許さない」というマインドを皆が持ったら、世の中はどうなるでしょうか。

 おそらく殺伐としてやり切れないでしょう。

「綺麗事」にとらわれず物事にチャレンジしていく人は、たしかに世の中には必要なのですが、その態度を他人に強要してしまっては、社会が病んでしまうだけです。

 マスコミなんてものは虚構です。これも綺麗事で溢れている。

「正論」というのは、一部の人間には非常に尊ばれますけれども、しかしながら「正論」を言えばそれで良いわけじゃない。「真実だけが力を持っている」だなんてのは永遠の誤算です。

・不特定多数の人間を傷つけたことが一番の問題

 そもそも公共の電波で、しかも真面目くさった番組において「●ね」という言葉を発すること自体、あまり相応しいとは思えません。それは、バラエティ番組で戯れに発されるそれとは、また別の空気感を帯びるのです。

 そして彼の場合、綺麗事を暴いただけで、その解決法を何も示さないまま、「一人で●ね」という言葉だけを残していった。要は真実の汚い部分だけを不特定多数の視聴者に向かって投げつけた。一番の問題はここです。

 もちろんこれについて、「そういう発言はよくない」という反対意見が噴出しました。それに対して、「橋下は正しい。橋下の言っていることに文句を言っている奴は問題の本質が見えていない。殺人犯を擁護するな」という意見も飛び出し、Twitterは大荒れに。

 しかし、本当に、橋下徹のコメントに異議を挟んだ人間は、問題の本質が見えていないのでしょうか。

 例えばこんなツイートがあります。

 心療内科などに関わっている人であればわかるかもしれませんが、心が不安定な人は、言葉をうまく解釈することができないことがあります。つまり「●にたければ一人で●ね」という発言が、自分に向けられたものだと思いつめ、さらに苦しんでしまう場合がある。

 Twitterでは「もし自分が病んでいた頃に、橋下のこの発言を聞いていたら、本当に危なかったかもしれない」というニュアンスのツイートが散見されました。

 それほどまでに、そういう言葉は、物凄い力を持って弱者に迫るのです。たとえそれがしっかりとした文脈の中で発された言葉であっても。

 そして何より問題なのが、それが匿名空間で誰かが発したいたずらな言葉ではなく、橋下徹という強い影響力を持った人間が発した言葉であるという点です。

・真実と綺麗事の関係をもう少し考えなければならない

 要するに人間というのは、真実だけで生きていけるほど強くはなく、綺麗事だけで生きていけるほど愚かにはなり切れないのです。 そのバランスを絶妙な状態に保つ、ということを、私たちは無意識にやりながら、日々を何とかやり過ごしているのです。

 橋下徹が少しでも社会的弱者に対して理解があれば、ここまでの炎上騒動にはならなかったのではないかと思います。

 私に対する反論も大歓迎です。結局のところこれは私の見方ですし、世の中にはさまざまな見方があると思います。もし何か感じたことがあれば、何でも構いませんので、遠慮なくコメント欄の方にお願いいたします。最後までご覧いただきましてありがとうございました。



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今西 登(必ずフォロー返します)

晴耕雨読をモットーに、日々考えていることについて書きます。気楽な人生を送るためのエッセイを主に執筆。毎日0時に更新!お仕事のご依頼はこちらまでお願いいたします。nishin1414194@gmail.com

雑想・レビュー

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コメント2件

川崎の事件以来、今西さんと同じようなことを考えていました。
正直、私はニュースで犯人が自ら命を断ったと聞いたとき「一人で…ね」と思いました。それも、娘を腕に抱きながらです。遡れば滋賀の保育園児巻き込み事故や池袋の暴走事故においても、心の中ではそう思っていました。我ながらおぞましい感情があると驚きます。
しかし、それをtwitterやFBに載せるのは不適切と思ったし、載せている人たちやテレビでそう発言している人には違和感がありました。
心で思うことと言葉にすることは大きく違うと本当に思います。ゆえに私は発する言葉には責任を持ちたいと強く思います。それこそ綺麗事かもしれませんが、最善を尽くしたいものです。
以上、感想でした。コメントは稀ですがいつも読んでいます、今後ともよろしくお願いします。
南葦ミト 様

コメントありがとうございます。私もまったく同意見で、犯人に対しては非常に強い憎悪を抱きました。そうですね、やはり心で思っていることと、実際に言葉に出してみるとではまったく違うと私も思います。

今の日本には「綺麗事をできる限り排除」し、「真実でもってすべてを切り開いていこう」「正論こそが一番偉い」という風潮が強まっているのだと感じます。確かに昨今の政治情勢を見ると呑気ではいられませんが、過度に事実だけを求めるマインドは、かえって人々の心を殺伐ならしめると考えています。

読んでいただいているということがとても励みになっております。ありがとうございます。今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
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