どろぼう猫

専門は法律ですが,論理学や分析哲学をはじめ多くの学問に興味があります。特に,人と人が主…

どろぼう猫

専門は法律ですが,論理学や分析哲学をはじめ多くの学問に興味があります。特に,人と人が主張を戦わせるような態様には深い魅力を感じており,日々考察をしています。

マガジン

  • ねこめも

    アイデアや日々のつぶやきなどを雑多に書き留める。

  • 悪性論理

    思考を混乱させ、論益を奪取するような論述が存在する。本書では、そのような悪性の論理を“詭弁”として構造と対処法を紹介することで、論壇から詭弁を、論理から悪性を排することを目的とする。 特に騙されやすいと思われる詭弁の類型を特筆しているが、ぶっちゃけ論理学に習熟すれば悪性4以下のものは難なくなぎ倒せるので、普通に勉強するのが一番。詭弁は、それが詭弁たる所以をつまびらかに指摘されると忽ち威力を失う諸刃の剣なので。

  • どろぼう猫の命題論理学入門

    命題論理学の入門書。 『“白い”ねこのーと』で用いられる論理式の流儀と完全対応しているので、同著を読む際にも役立つと思います。

  • うらのーと

    論法集。著者が実際に用いて成功したものを多数収録予定。

  • “白い”ねこのーと

    喧嘩と論理の深淵。その冒険記。

最近の記事

page.23 Question and Induction

 命題 A における───それが述語記号であれ,個体記号であれ──定項を変項 x に置き換えて得られる ?xA(x) を,A の un-gestalt と呼ぶ。そして,本書の考える「問い」の本質とはそれである。  当然だが,A はその un-gestalt の答えの一つたり得ることになる。  ? はこれを疑問子と呼び,疑問子はそれが係る変項にたいして前置記法で記す。(たとえば,?yB(y)∧C ではその疑問子は y に係り,作用域は B となる。?y(B(y)∧C(y))

    • 過去と再現

       上掲した永井均のツイートを契機として,本項では,記憶表象と過去との区別はどのようにして可能であるか* を検討する。  記憶表象と過去のそれぞれを反省してみると,前者が後者にたいして恒に抽象的であることは私には殆ど自明に思われる。*2  よって,素朴には「情報的な包含関係を把捉することで,記憶表象と過去との区別を可能としているのではないか」という仮説が考えられそうである。これは,抽象的ではあるが,本題に一つの答えを与えるように見えるかもしれない。「記憶表象と過去との区別は

      • page.22 間テクスト性の諸性質

        間テクスト性(intertextuality)は,主にポスト構造主義者たちに頻用され,意外かな構造主義者たちにもしばしば援用されてきた歴史をもつ,哲学の重大なテクニカルタームである。 クリステヴァが1966年に造語した。 同時期にはデリダの散種(Dissémination)など,テクスト読解における無視できない振盪が認められる。次項ではこの事態を批判することで,現在われわれの立たされている哲学的座標を把捉し,それによってこれから向かうべき場所についての検討を予定している為

        有料
        500
        • page.21 論述債務の発生事由

          論述は議論の本質的構成要素であるが,これを恒に誰にでも請求できる(或は,我々はみんな,誰に対しても恒に論述を加える義務を負っている)と考えるのは不合理であろう。 本書では,論述をしなくてはならないという義務を【論述債務】と称ぶことにして,その発生事由や消滅事由なども考えていきたい。そこで,本項では取り急ぎその発生事由を簡単に述べる。 AのBに対する主張aの論述債務は,【Bの論理体系にAがaによって対抗しようとするとき】に生じるのだと考えられる。端的に,論述債務は【外部への

        page.23 Question and Induction

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        • どろぼう猫の命題論理学入門
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        • “白い”ねこのーと
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          ¥4,200

        記事

          page.20 論益の基礎とすゝめ

          本書では,論争の完成によってそのコミュニティに得られる利益の一般を【論益】と称ぶ。 (論争に参与するアバター間において,そのトピックの命題に与えられる真理値一致の確認を以て,その論争は完成するものとする) 論争の一般に,そのトピックに静謐する益を認めることが出来るように思われるが,──いわゆる喧嘩界隈など──論争すること自体を利得に設定すべきコミュニティを俎上に乗せたときは混乱が生じ易いように思われる。 アバターの内部には,その主張を通すことの利益が必然に予定されている

          page.20 論益の基礎とすゝめ

          Counter Warrant

          B氏が、A氏の属性 Fx を論拠に同氏の属性 Gx を非難したときの論述を次のように記す。 Data:Fa Warrant:∀x(Fx→Gx) Claim:Ga (個体 a には、A氏による任意の諸言動があたる) そこで、A氏がB氏の論述における Warrant を逆用して、B氏を批判する次のような論述を考えよう。

          有料
          300

          Counter Warrant

          すでに看破した人も大勢いると伺いましたし、クオリティの事情などから、騙される人は極めて少ないとは思いますが @c:izanagi_izanami は私と別人であることを明言しておきます。 また、私がTwitter及びツイキャスに現れることはないことも、この機会に再言します。

          すでに看破した人も大勢いると伺いましたし、クオリティの事情などから、騙される人は極めて少ないとは思いますが @c:izanagi_izanami は私と別人であることを明言しておきます。 また、私がTwitter及びツイキャスに現れることはないことも、この機会に再言します。

          page.19 抽象化/一般化

          抽象化と一般化については,文脈によってニュアンスを察することが難しくないため,本書でも特に区別していない。 しかし,次のような区別を考えると,この言葉たちが実践されてきたコンテクストによく整合するように思われる。すなわち,あるトークン a に言及する命題 A に対して,それぞれ 一般化:∀xA[a,x] 抽象化:∃xA[a,x] といった定義をすることによる区別である。 (本項では,論理式 A において,個体パラメター a を,個体変項 x に置き換えて出来る式を,

          page.19 抽象化/一般化

          page.18 信念の主体

          本書 p.15 では,信念について次のように記した。 信念は,次のように,専らプラグマティックに定義される。すなわち,それが内的に,形而下に作用するような主体たるアバターの諸言動である。つまり,観測ないし知覚可能であるような言動を伴わないものは信念としてナンセンスであり───むしろ,そんなものは信念として認められなくてよろしい───伴うものが,信念として有意味であり,それら観測ないし知覚可能な諸言動に依って,信念はその内容を定められる。 うえの引用は,端的には信念

          page.18 信念の主体

          ‪直接有形的な論理と、間接有形的な論理とに分けられるのでは。‬ ‪専ら無形的な論理はナンセンスか、或いは間接有形的な論理の実行を、円滑にする。‬

          ‪直接有形的な論理と、間接有形的な論理とに分けられるのでは。‬ ‪専ら無形的な論理はナンセンスか、或いは間接有形的な論理の実行を、円滑にする。‬

          記号化の陥穽-1

          悪性:☠️☠️☠️ 「すべての A は B である」といった言明に対して、 ∀x(Ax→Bx) といった記号化が適訳であるのは、わかり易い。 そこで、「ある A は B である」といった言明は、 ∃x(Ax→Bx) と記すのが適訳に見えるかも知れないが、これは、かなり危険な誤訳になる。 ニュアンスを考えると、「ある A は B である」は、∃x(Ax∧Bx) と訳するのが適当である。 ∃x(Ax→Bx) は、「性質 A を満たすとき、必ず性質 B も満たすような個体

          記号化の陥穽-1

          人身攻撃の範囲

          悪性:☠️☠️☠️ 『人身攻撃』特に『人格攻撃』と呼ばれるものを字義的に捉えてしまうと、次のような混乱を生じやすい。すなわち、「主張って、けっきょくその主体の人格の表れであって、主張そのものに純然と攻撃する態度も、人格を攻撃していることになってしまうだろ?俺のやった人身攻撃を非難するならば、お前も『人身攻撃をやるような俺の人格』を人身攻撃していることになるのではないか!?」といった意見である。 たしかに、素朴に、『人格攻撃』の字面だけを追ってみようとすれば、『論敵

          人身攻撃の範囲

          詭弁としての人身攻撃

          悪性:☠️ 『人身攻撃』また、『人格攻撃』とも呼ばれることもあるこの行為は、世間では代表的な詭弁とされる。 一般的に理解されている概要は、[トピックに対し、論理的に(真理関数的に)絡まない論敵の言動を非難することによって、その論争において優越しようというもの]ということが出来るが、本書は、これを「ただちに詭弁である」とは言い難いものと考える。 但し、この『人身攻撃』にあたる行為のなかには、詭弁と見なすことに議論の余地がないと思われるものもあり、そのような場合を次のよ

          詭弁としての人身攻撃

          絶対はない

          悪性:☠️☠️☠️ 「絶対なことはない」という主張は、一見、真理を捉えたように聞こえてしまうし、これをドグマとしている人を見ることは珍しくないが、あまりよい論拠ではない。 素朴には、「絶対はない、というのは絶対なんですか?」という返しが考えられる。この返しは一定の美しさを持つが、本項では、また別の───そして美しさも忘れないよう───より珍しい返しとして、“論理の限界”(白猫本 p.17参照)の理屈に基づいた対処を紹介する。 端的には、論理の限界の理屈を説明して、「よっ

          絶対はない

          page.17 論理の限界

          『絶対はない』という考えは,素朴には真理に映るかもしれない。 しかし,私は,このような考えは誤りだと考えている。本項ではこの理由を説明する。 そのためには,まず,われわれの信念というものの本質を見つめなおさねばならない。そして,理由や根拠の繋がりには,いずれ担保を失う一群の命題(私は,これを公理系と呼んだこともあった。)が存在するという理屈も,思い出さねばならない。 われわれの信念体系にも,どこかに担保を持たない一群の命題たちが存在している。われわれのもつ信念体系

          page.17 論理の限界

          俺の自由バリア

          悪性:☠️ ある行為を正当化するために、「だって、それは俺の自由だろう」という返しをする人は少なくないが、こういう人たちに対しては、『この人、なおさら非難されるべき事由を自分から話してしまっているな』と思う。 というのも、ふつう、「ある行為に対して、自分は自由だった」というのは、つまり自分の意思によってその行為を成したということであって、これはまさに、当該行為が自らに帰責する事由であるからだ。 原則として、自由には責任が伴う。 仮に、「その行為は俺の自由だ」では

          俺の自由バリア