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ねこめも

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アイデアや日々のつぶやきなどを雑多に書き留める。
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過去と再現

 上掲した永井均のツイートを契機として,本項では,記憶表象と過去との区別はどのようにして可能であるか* を検討する。

 記憶表象と過去のそれぞれを反省してみると,前者が後者にたいして恒に抽象的であることは私には殆ど自明に思われる。*2

 よって,素朴には「情報的な包含関係を把捉することで,記憶表象と過去との区別を可能としているのではないか」という仮説が考えられそうである。これは,抽象的ではある

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すでに看破した人も大勢いると伺いましたし、クオリティの事情などから、騙される人は極めて少ないとは思いますが @c:izanagi_izanami は私と別人であることを明言しておきます。
また、私がTwitter及びツイキャスに現れることはないことも、この機会に再言します。

‪直接有形的な論理と、間接有形的な論理とに分けられるのでは。‬
‪専ら無形的な論理はナンセンスか、或いは間接有形的な論理の実行を、円滑にする。‬

ゲシュタルトの実質は、イデアと緊密だと思ってるんですよ。そして、イデアの正体というのは、認識における抽象モデルであると見ています。
ゲシュタルトは、抽象化によって得られたなんらかの像であり、それが崩壊する(ゲシュタルト崩壊)とは、その抽象像が失われる現象を指すものだと解釈します。

有機的に絡むと何がいいかというと、脳のキャパを節約できます。
実は、多くを学ぶというのは、単純にそれだけ容量を消費するというようなものではなく、それぞれを体系的に理解した結果は、案外楽に記憶しておけるのです。

抽象化の意識は、得てして学習を有機的に絡ませてくれます。新たな知識を得るときには、それの内包/外延、抽象化/具象化を、既知のことがらと連関付けると良いですよ。小ワザみたいなものです。

愚かな戦場カメラマン

あなたの力になるためには、あなたより深く、あなたの論理を理解できなければならないのか。

それが本当のことならば、最深は孤独か。深淵は、そうであるが故に危険地帯か。そこに望んで赴いた人が放ったメーデーへの批判は、勇敢で愚かな戦場カメラマンに向けられた眼差しと何が違っただろう。

自分の中身を、論理で記述しようと試みるのは心の否定だとだれかに言われた。それとはまったく別の意味で、あなたには次のような

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類推と仮説

取り急ぎメモ。のちに白猫本で丁寧に書き直すので、今はわかるひとだけ。

類推の実質:B→A,C→A▶︎B↔︎C

B→C C→B (α同値)

abduction:B→A,C→A▶︎B→C

類推は abduction の亜種。より正確には、abduction を双方向に用いて演繹(deduction)を加えている。

新しく高校の選択科目に導入される論理国語の学習指導要領(p.154)では、推論

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『どろぼう猫』という一般的にはひどい名前の由来が実は少し哲学的なんです。
というのも、相違なる二者が互いを十全に満足させるような場合はなく、どこかに穴を残すからで、この穴の一部を埋める存在としての『どろぼう猫』を自称することで、穴の存在を主張しているわけです。まぁ嘘なんですけど。

客観的な世界はカオスに向かい、主観的な世界は整序に向かうと表現したほうがよかったかもしれないですね。

実は、私が散々語っている“喧嘩”というのも、整序に向かうための人間の営みなのです。

世界に対して決定したがるのに、世界から決定されるのは嫌がる。そんなわがままな人間が私です。

私は、世界に対して不定であろうとする。

世界は一般にそのエントロピーを増大させるが、思考は一般にそのエントロピーを縮減させようとする。

‪妥当を語るにしても、なんらかの非妥当を認めないと、永遠に墜落するか、命題として失格する。それが論理の特性。‬

まあ、やっぱり普通に命題として扱ったりは無理ですので、語るといっても特殊な語り方になるでしょうけど。

黒猫本時代にはgmailさらしてお題を募集してたんですけど、一度疑問文を命題として私に意見を求めてきたものがありました。
その投稿者様が無知だったのか何かを狙っていたのかは知りませんが、疑問文だからと一蹴するのもつまらないかなということで、いずれ少し語りたいなと…