page.17 論理の限界

『絶対はない』という考えは,素朴には真理に映るかもしれない。

しかし,私は,このような考えは誤りだと考えている。本項ではこの理由を説明する。

そのためには,まず,われわれの信念というものの本質を見つめなおさねばならない。そして,理由や根拠の繋がりには,いずれ担保を失う一群の命題(私は,これを公理系と呼んだこともあった。)が存在するという理屈も,思い出さねばならない。

われわれの信念体系にも,どこかに担保を持たない一群の命題たちが存在している。われわれのもつ信念体系が,無限に担保を持つと考えるのは病的であり,根拠にあたる命題が循環しているような信念体系には,正常な担保/被担保の関係を認めるべきではないだろう。

信念は,永遠に担保を持つことは出来ない。

敷衍するに,ある信念体系 A において,任意の信念として, P があるとする。首尾よく, P の根拠として,信念 Q があったとしよう。このようなとき,少なくとも A には, {P,Q,Q→P} が属すると考えられる。

次に, A において Q 及び Q→P といった信念(命題)の根拠があるのかを考える。

また,首尾よく,両方とも根拠があったとしよう。それぞれを R,S と記すと, A は次のようになる。

{P,Q,R,S,Q→P,R→Q,S→(Q→P)}

根拠を求め続ける立場にとっては,事態はさらに深刻となっている。なぜなら,今度は R,S,R→Q,S→(Q→P) の4つの命題に,根拠が記述されていないからだ。

もちろん,構文的にはこれらすべてに───応急処置として───根拠を付与することはできるが,今度は,ここに付けられた根拠に対して,根拠が認められなくなる。このことは,反復的にわれわれの信念についてまわるし。また,一般に,根拠を付けていく毎に幾何級数的にその公理系(根拠を持たぬ一群の命題)は増えていく。

ここで,循環すればよいのではないか,すなわち, P の根拠として P を考えればよいのではないかと考える人もいるだろうが,このようなときは P→P という関係を述べるにとどまり,Pを主張出来ていない。同一律という,たんなる論理的真理を“再言”するだけである。(論理的真理は,世界の基盤のようなものであり,思考の前提であるべきだ。)

このようなわけで,信念体系には,必ず───まさに公理系とでもいうべき───担保を持たない一群の命題が存在する。

そして,このような公理系は,その静的な信念体系にとって,まさに“絶対”の領域である。

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