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食卓と日常

ごはんがおいしいと幸せ。

実家で暮らしていた頃、家で過ごす中で一番楽しみだった時間は、食卓でごはんを食べている時間だったと思う。

親父が単身赴任をすることが多く、家族が揃わない時期もあったが、揃ったときは家族で食卓を囲んでごはんを食べる。それが家にとっては当たり前の日常であった。

毎日、家族で楽しく食卓を囲んでいたことは、特別な日常を過ごせている時間なんだと、一人暮らしをしてから気がついた。

当たり前が染みついてくると、それは永遠に変わることのない日常なんだと思いこんでしまう。しかし、その日常はいろんな形で、突然「特別な日常」へと変化するのだ。

ふと、食卓での親父の姿を思い出した。

いつもより豪華な料理が食卓に並ぶとき、決まって親父は飯についての文句を言った。母親が高級な食材を買ってくると、味がイマイチだと評価をつけたがる。親父はそんなあまのじゃくな男だった。

親父は近くの山に山菜を採りにいくのが好きで、よく車で山に出かけて自分で採った山菜を持ち帰った。その採ってきた山菜を母が天ぷらにして食卓に並べる。

自分が山で採ってきた山菜の天ぷらを食べるときは、「やっぱり山菜の天ぷらはうまいな~」と必ず上機嫌だった。

自分がお金をかけずに採ってきた食材は褒めるけれど、他人が買ってきた食材はおいしいと言わない。そんな不器用な親父だった。

本当に自分勝手な人だと子どものころは思っていた。ふと、この食卓の光景を思い出したときに、親父はなんであんなに素直にうまいと言えないんだろうと、なぜだか考えてしまった。

私は現在、パートナーと同棲している。よく一緒にごはんをつくったり、仕事から早く帰ってきた方が用意しておいたり、共働きの現代社会ならではの食卓の形をとっている。

ある日、買い物に行ったときに偶然寄った金物屋さんで、少し高級なスライサーを買った。どんな料理をつくろうかな~と、家路につくまでの道中、スライサーを使って料理することに彼女はずっとウキウキしていた。

家に帰るとスライサーを使って大根サラダをつくってくれた。サラダを食べているときに彼女がこんなひとことを言った。

「スライサー使うとおいしいね!味がちがうわ!」

細かく調べれば、切り方によって大根の旨味が出やすくなるとか、食感がいつもとちがうとか、おいしくなることの理由はあるかもしれない。しかし、いつもと同じ食材で道具を変えただけで、何の疑いもなく「いつもよりもおいしい!」と話す姿を見て、なんだか食卓が楽しくなった気がしたのだ。

そのときの出来事と、自分で採ってきた山菜をうまいと言う親父の姿が、なぜだか重なって見えた。

素直に感謝の気持ちを伝えられない不器用な親父が、自分が採ってきた山菜という恥ずかしがる理由もなく「うまい!」と言える料理を食べたときだけ、料理をつくってくれる妻への感謝の気持ちを素直に伝えることができたのではないだろうか、そんな風に思ったのだった。

「言葉にしなくちゃ伝わらない」と、どこかの誰かが言っていた。それはそうなんだけど、当たり前にくり返す毎日の中で感謝を言葉にし続けることは、意識しないと続けられないことだ。

当たり前の日常の中で、当たり前のように思っている感謝の気持ち。それは、普段とちがう小さな演出を加えて言葉にできる機会をつくってあげることで、自然と言葉が出てくるんじゃないかなーと。我が家の食卓を思い出して、そんなことを考えた。