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週末、東風が吹く 6/7

 深い森に囲まれた、完璧な正円を描く湖の傍に僕らはいる。頭上には青空が広がり、遠くからは大きな雲の峰がこちらへと向かってきている。だが、風は無い。湖面はどこまでも静かで、凍り付いていても、ともすると鏡であろうとも驚きはない。中央、湖中には強い光源が存在している。それは、漆黒を何十層も塗り重ねた深い黒を湛える、計り知れない広さの森との間に、大きな断絶を形成している。昼と夜、心と体、わたしとあなた、決して交わらない、各々が自身の定義に従い、ムール貝みたいに固く殻に閉じこもっている。かたや、空が翳す光を照り返し、かたや、隈なく吸い込む。ともに、ひっそりと運命が与えた日々に従う。農夫のごとく穏やかに淡々と本分を果たす。足元では、雑然と蔦を伸ばし続ける名前の無い雑草が地を覆っている。ここは森と湖の境目、一種の緩衝地帯だ。だが、やはりここにも警告を与える存在がある。腰の丈くらい、ススキに似た形状、先の尖った葉が茂っており、息を潜め、僕らを監視している。微かな音が草叢から湧き上がる。獰猛な生物の一群を想起させる。ゆっくりと、だが好奇心と敵意、そして本能の高まりで濁った精神は、正確な歩みで距離を縮めてゆく。ひどく自然なことだ、常に僕らは一人ではないのだから。

「そう、一人ではない。選ばれたものは五万といる」

 ツイードジャケットの男は突如、僕らに言って寄越す。僕らは驚いて彼を向く。あのシックなガンクラブチェックの上着は知らぬ間に取り払われており、今は真っ白な着物が身を包んでいる。

「どちらへ向かってもいい。君には選択を行う権利がある。無論、責任は伴うがな」

「どちらへも」と僕らは言う。その声は、稚拙なポリフォニーだ、ひどくくぐもり、歪んでいる。「どちらへもって、どういうことだ?」

「どちらかしか向かえないということだ」

「ちょっと待ってくれ、何のことかさっぱりわからない。そもそも、選択肢を教えられていない」

 男はゆっくりと湖へ向かって歩き出す。僕らはその歩みを、絞首台へと登る囚人にダブらせる。

「どういうことか、きちんと説明してくれ」と言おうとする僕らだが、口を開くことができない。何世紀も鍵が掛けられたままの扉だ、大切なことを言わずにいると、いつか僕らは本当の言葉を失ってしまう。

「どちらかだけなんだ」男は少しずつ、しかし確実に、湖へと近付いてゆく。「どちらかだ。今、君の周囲には残像のごとき無数の人間が纏わり付いている。しかし、間もなく、君は全てを捨て去ることになる。いつまでも猫を生かしておくことはできない。誰かが必ず蓋を開ける。すれば、一切の仮説は無意味だ。結局どちらかなのさ。君は生きてゆく。つまり、避け難く、数多の猫を殺めなくてはならない」。また一歩、男は遠ざかり、背中越しで語り続ける。「君は生きている猫であり続ける。そして、君が犯す選択に応じて、他の君であった存在には判決が下され、心臓が抉られる」

 もうあと三歩だ、彼は湖へと消え失せる。僕らは意を決める。彼の元へと走ってゆく。草が濡れていて、危うく足を滑らせそうになる。バランスを崩しながら、必死に彼に向けて手を伸ばす。男は待っていたのかもしれない、僕らはその右腕を掴むことができる。そして理解する、やはり彼は待ち兼ねていた。広がるさざ波に似た柔軟さ、男は流麗に翻り、彼の右腕に掴まる僕らの右腕を脇に抱え、トネリコの大樹ですら根こそぎ奪い去る強い力で、僕らを放り投げる。地を離れてしまえば、力に逆らうことなど不可能だ、自身の勢いを押しとどめられない。設定された目的地、静かな湖へ、真っ直ぐ、僕らは脇目を振ることはできない、飛んでゆく。宙に浮かべば、法則通りの放物線を描くしかない。運命付けられる墜落、僕らは今、授けられた義務を果たしている。その時、胸の内につっかえていた苦しみと欲望の一切から、僕らは解放される。いや、単なる錯覚に過ぎないのかもしれない、いずれにせよ、そんな思考が漠然とよぎる。すでに表情は、暴力的な安堵で満ちている。だが、言うまでもない、消えない後悔は残っている。はらわた近くだ、どこかへ臍と思しき一部分から、強い拒否反応が発せられている。安らぎの顔で僕らは落ちてゆく。同時に、流れに逆らおうと、無駄な足掻き、手を伸ばし、どうにか空を掴もうとする。残念ながら、博愛主義を掲げる人間存在の糧たる空気には形がない。重力は平等主義ではあるが、厄介なことに原理派だ、彼は己が信念を守り抜くため、無慈悲な姿勢を貫く。僕らにはもう、抗うという選択肢はない。間もなく、水が打ち付ける微かな鋭い痛みとともに、心地よい冷たさが身体中に広がる。そして、脳からは思考が剥ぎ取られ、柔らかな水中にたゆたう水草のように心は解放されるのだ。


 僕らは湖に含まれる。


 目を開けば、夕闇に薄っすらと描かれた虹のよう、夢と見紛う美しい輝きが視界を彩っている。外界から差し込む全ては光だ。幾重もの筋となり、水中で広がり、湖底の遍く照らし、格子模様となった光線はプリズム、無限の色を有している。その光はひどく柔らかい。遠いところにも光源がある。それは一層明るく、太陽ほどに強靭だが、やはり水が守ってくれるのだ、僕らはそれを直視することができる。ここは優しい光で溢れている。太陽も、死すらも、自分の目で見つめることができる。

『ここにいてはいけない』

 女の声が聞こえる。僕らにはそれが誰だか分からない。昔に出会ったことがあるのかもしれない。遠い砂浜に埋められた夢、音のない海底に沈められた愛。遥かな歴史だ、何世紀もの間、路上を往き、海を泳ぎ渡り、孤独な壁を超えた先で、僕らは彼女とともに生きているのかもしれない。だが、今はまだ、それが誰かを知ることはない。いつかは、というわけでもない。時間は、生や死と似たように無限に拡がり続けるかもしれない。しかしだとしても、一体、どうやって僕らは声の主を定めることができる? どんな手段で返事をすることができる? 全ては忘却の波が攫ってゆく。それが誰であれ、つまるところ、僕らにとって意味はない。

『ここにいてはいけない』

 僕らは両腕を一杯に広げて、足をばたつかせ、水の中、強い光へと向かってゆく。

『ここにいてはいけない』女は繰り返す。

『戻ってきて、君たちと約束をした。いつかまた、必ず戻ってきてくれると』

 僕らは様々な人々と様々な約束を交わしてきている。そして、どの約束も、ついぞ果たされることがないのだと学んでいる。いくら言葉を重ねようと、救いは訪れなかった。何百万と文字を連ねようと、僕らの意図は曲げられ、黒い渦に呑まれた。水泡のような虚しさが残っただけなのだ。

『なら、どうしてあなたは語り続けるの? どうして歌い続けるの?』

 その声は柔らかな水を通じてしなやかに僕らの鼓膜を揺らす。

「なぜ僕は生き続けるのだろう?」と僕は水を震わす。

 そして、すべての光が失われる。


 闇だ。その中でも、暫くの間、語るべき言葉を持たない僕らは未だ輪郭のない概念だ。けれど、魂とも言ってもいい、あるいは夢と呼ぶべきか、平坦で小さな炎が浮かび、瞼のない僕らの目を照らし、暖めてくれる。共有していたはずの視界に流れてくるのは、各々、異なった映像だ。言葉の無い意識の中、何かの音が鳴っている。黒電話のがなり立てる呼び鈴のように、ひどく生々しく暴力に満ちた、それぞれ固有の声。僕らがみな、生まれながらに与えられる声と言われるものだ。産声を上げる赤子のよう、自分の声を聞きたいという衝動が、全速力で僕らを駆け抜ける。止め処なく流れ出す野生、肉食獣の猛り、情動にのみ突き動かされ、僕らは叫ぶ。そして、僕らはもう僕らではない。君と僕は違う記号が付与されている。はなればなれに、絶え間ない孤独を連れ、愛と憎しみの空っ風に吹かれる、荒野を彷徨う旅人になる。

 夢は終わった。


NO MONEY, NO LIKE