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週末、東風が吹く 3/7

 柔らかい光に満ちたキッチンには、爽やかな風が巡っていて、驚くほどに整然としている。台所回りは、個人的なカタログに基づいて種類毎に纏められ、それは使用頻度と衛生面に十全に気を配っているのだろう、快適な作業へ打ち込むための職人的空間が設けられている。引出しの中も、望まれぬ来訪者らしく引っ掻き回すなんてせずとも、同様に合理的な分類がなされていると想像に難くない。

「秩序だ、概念としての秩序。君はそれを実現したんだ」と僕は両手を広げ、メイコに語りかける。

 その整然さはモデルキッチンに匹敵している。だが、ポパイ誌みたいな、想像力の欠けた人間を対象とした販売促進用のイメージとは違う。時が残した汚れ、そして清潔さの維持という多大なる努力の痕が認められる。写真で見ると、二つは瓜二つだ。だが、実際にそこへ行くと、流れる気の差異に気づく。ちょうど、電子メールと手紙みたいなものだ、苦悩と躊躇い、そして、血が通った時間が内在しているのである。完全さを求める不完全さの中でこそ、初めて人は生きているのだと示すかのようだ。

「ねえ、褒めてくれるのは嬉しいんだけどさ、その、少し落ち着いたら? それに、その『概念としての』っいうの、なんなの?」とメイコが呆気にとられる僕を見やる。「純粋な好奇心から訊くんだけど、君はその喋り方を意図的に身につけているの?」

「これは署名だ」と僕は冷めやらぬ口調のまま答える。「筆跡といってもいいだろう、誰かが僕の言葉を文字にして読む事態に陥るかもしれない。その場合、『と誰々は言った』みたいな駄文を省くことができるよう、常に僕は発言に細心の気を配っている」と僕は言った。

「やれやれ」メイコはキッチンの入り口で立ち尽くす僕を置いて、片方の質問への回答がないことも気にせず、移動してゆく。テーブルに置かれた持ち手のないマグカップを手に取り、口元に運んで少しの間香りを嗅ぎ、一口すする。一連の動作は自然で美しい。一流の左官職人が鏝をヤスリで手入れするみたいだ、習慣と節度によって醸成された流麗さがある。

「マキちゃん」とメイコは唐突に口にし、僕ははっと息を呑む。「変わりない?」

「変わりない?」と僕は彼女の元へと向かい、平坦な床に躓く。「ああ、変わりない。たぶん」

 ふと気付いたのだろう、時報を思わす挿入句の体で、メイコはコーヒーを勧める。僕はテーブルのところへ行き、ぴったりとテーブルに張り付いた椅子の一つを剥がす。

「どうして、マキが変わりあるんだい?」僕もコーヒーをすすり、コルク張りの椅子に腰掛ける。ひどく日本的なコーヒーである、中深煎りで酸味は皆無、舌の中央には豊かでヘヴィーなコクが残り、ゆっくりと口中に広がる。

「いや」とメイコも再びコーヒーをすする。もちろん、香りを吸い込むのを忘れない。「昨日、少し元気がないように見受けられたからね。でもどうやら」と言葉を選んでいるのだろう、沈黙を置き、続けてカップを置く。「私の杞憂に過ぎなかった、空からは何も降ってこない」

「杞憂」と僕は繰り返す。

「かっこう」とメイコ。なんと!

「かっこう」「かっこう」「かっこう」

 そして、メイコが無邪気に笑う。幾らか彼女には似つかわしくないが、悪くない、冷たい冬に現れる陽だまりに似て、特別な幸福感を運んでくれる。

「そうだ、私、クリスマスの日からイタリアに旅行しに行くんだよ」

「いいじゃないか、ロマンに溢れている」

 僕がコーヒーをすするとメイコもコーヒーをすする。カタン、と二つのマグカップが一緒に音を立てる。

「だからさ、君、もし泊まる場所を決めてないのなら、私の部屋、使ってくれても構わないよ」

 なんとまあ、青空からは思いも寄らないものが降ってくるではないか。晴天の霹靂、いや、怒りではないから、ペニー硬貨か。

「それは」と僕は間を置いて考える。もちろん、予定もなく、宿の予約もない。だから、実際のところ、とても素晴らしい提案だ。ドイツに移住したみたいじゃないか、この日々が旅行ではなく生活になる。それを想像すると、胸が高まってくる。相も変わらず、マキの近くにいることもできる。

「とても耳寄りな話だ、信じ難いほど。ぜひとも、そうさせてもらいたい。出発は二十五日かい?」

「そう、だから二十五日の夜、私の部屋は君の部屋になる」

 僕はコーヒーを飲み干し、時間を確認する。黒い時計は十一時を少し回ったと示している。

「そろそろ」と僕が言うと、メイコも「そろそろ」と呟く。かっこう。

「なんの仮装をするの?」

「今にわかる。結局のところ、僕らがそうあるべき格好だ」


 メイコの棟からマキの棟へ向かう、短い道のり。

「いい天気だ」と僕。

「良すぎるかもしれない。ミュンヘンらしくない」

「ミュンヘンらしくない?」

「街をよく知りたければ、日がな一日広場を眺めて、古本屋に入りなさい」

「誰の言葉?」

「私」

「ほお」

「広場はわかる。けど、古本屋はどうして?」と再び僕。

「彼らの頭の中がどうなってるか、手っ取り早くわかるでしょ?」

「でも、現代人は本を読まないよ」

「たしかに、現代人は本を読まない」

「なら、君の測量法は有効に機能しない」

「いいの、彼らはノイズみたいなもの。音はあっても、意味はない」

「あるいは、漂流ゴミと呼ぼう。情報の洪水に流されるだけのクズだ」

「まあ確かに、大海に潜る人間だけが街を形成している、本質的には、あらゆる文脈において」

「彼らは生ける屍、フィロソフィカル・ゾンビだ」

「大層な言い様、君はいくらか過激すぎるよ」

「君も中々さ」

「合わせてるんだよ、気付いてなかった?」

「どうかな? あるいはそうだろう」

「概念としてのあるいは」とメイコ。

「不明瞭な文言だ」

「いや、反跳的文言だよ」

「言葉が常に反跳するから、賢者は口を閉ざすのかい?」

「概念としての賢者」

「概念としての賢者は、実在的愚者に依存している」

「あるいは」「あるいは」「あるいは」

「君は影がない」とメイコが言う。

 僕は無言で自分の影を見つめ、それがマキが暮らすコンクリート造りの建物の影に含まれるのを目で追う。僕には影がない?

「いや、君の影はカットグラスのそれに近いのかもしれない」

 メイコはブザーを鳴らす。

「カットグラスの影、見たことある?」と訊かれ、僕は首を横に振る。

 再びブザーが鳴って、ドアは解錠される。メイコは僕を見る。

「とっても綺麗なんだよ、実物よりも遥かにね」

「ふむ」と僕。

「影としての美しさを追求して作られたかのよう、むしろね」

 そこでメイコは言葉を切る。影としての美しさ?

 メイコは中に入り、速い足取りで階段を上がって行く。しかし、階段の中腹、踊り場でメイコは突然立ち止まり、僕は彼女を抜かす。

「むしろ」メイコは後ろから僕に語りかける。「本体の形状や脆弱さなんて二の次であるみたい」。添えられた物憂げな様相は、高い窓から差し込んだ光のために右半分が陰になった表情に付着して、ひどくアンニュイだ。

「けれど、フィッツジェラルドは」と僕は返す。「割れたカットグラスにも使い道はあると言う」

「どうかな」と再び早足となるメイコは僕を追い抜き、背を向ける。


「おはよう、メイコ」扉を開くと、こちらに満面の笑顔を差し出すマキが現れる。エメラルドグリーンの着物には桔梗の花が幾輪も咲いており、同じように光沢を持った真っ白の帯が綺麗に結われ、上に羽織ったピンクのレースが調和し、晴れやかな色合いを演出している。寒さのせい、首元のV字から黒いタートルネックのニット地が生えているのが唯一削ぐわない。が、正直なところ、僕は愚かしいほどに可愛らしいと感じている。そう、一層愚かしくも口に出してしまう。聞きつけたメイコが僕を一瞥する。曰くありげな微笑、浮かれる男への軽蔑たの目は冷たく、僕はたじろぐ。

「美禰子みたいね」とメイコ。

「『三四郎』? その褒め言葉、嬉しい」とマキは満面の笑み。キュートである、着物姿が魅力を引き立て、天邪鬼な男は「馬子にも衣装」という言葉を思いつく。そう口にする衝動に駆り立てられるが、すんでのところ、抑える。「僕の言葉は時折、大きな勘違いを伴ってしまう」マキは言った。その通り、世間一般の感情表現を否定するからこそ、愛情も面倒で分かりにくいやり方でしか伝えられないのだ。それを好む人間なんて滅多にいない。いても良さそうなものなのだが、と僕は望んで止まないわけだが。

「Nも何かもと感想あるよね?」とメイコが言う。親戚のお見合いを取り付ける類の、お節介なおばさんみたいに。

 僕はどもって「悪くない」と口にする。やはり僕には、適切な時の適切な言葉を瞬時に見定められない。何かが阻害しているのだ。昔はそうではなかった気がする。しかしいつからか、語れば語るほど、考えれば考えるほど、後悔と自己嫌悪が蓄えられている。そういう専門の銀行があれば(現代社会はあらゆる種類のサービスが存在しているから、探せばきっと見つかる、が検索する気が起きない)、今頃、月旅行すらも可能なほどの資産家だろう。

「Nはうらはらさんだねえ」とマキがにやりとする。「さ、君たち二人」と膝を叩く。「変身の時間」

 まずはメイコにお仕着せ。僕はキッチンへと退出する運びとなる、そそくさと、虫みたいだ。

「あ、N」と後ろからマキの声。「暇だったからって煙草に逃げるのは体に悪いよ。だからね、これ」とギターを差し出す。

 十五分間、僕はキッチンで、ラバーソールの一曲目からを順繰りに弾き、途中、煙草一本を蒸し、四曲目が終わると、やっとのお呼びがかかる。

「君の番、お待たせ」と現れるのは、紫色の袴に赤白の矢絣模様の着物を纏ったメイコ。

「美禰子みたいだ」僕は軽口を叩く。

「君は文脈を読み取れていない」メイコは眉をひそめる。「君は三四郎だ」

 僕は首を傾げ、『Think for yourself』のイントロを弾く。漱石は『坊っちゃん』しか読んでない。

「それ」とメイコ。

「ビートルズ」

「そうじゃない」

 僕はまた首を傾げる。

「持っていけば?」メイコはアコースティックギターを指差す。

「すごくいい」とやおらマキが現れる。「メイコ、それぴったりなアイディア」

「でしょ?」とメイコはマキを向き、二人は顔を見合わせて笑う。「着物姿にうってつけの演出」

 二人は、街で道を塞ぎながら騒ぐ若い女たちみたいに、両手を合わせて歓喜の声をあげる。どこかの大学の卒業式に紛れ込んでしまったみたいに思える。僕にはまだ沢山の単位が必要だから、お呼びでないはずなのだが。

「お二方」と僕は水を差す。二人は、旅行で放置され不貞腐れた猫みたいに、呆れと諦めの込もった目で僕を見つめる。「というかマキか、僕が身につけるべき物とその方法を教えてもらっていいかい?」

「そうね」とマキが口を開く。「君」と続いて窓を開く、「結局煙草吸ったんだね」

 二つのため息は息ぴったりだ。


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