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一枚の古地図、山師の入来 3/4

 昨日、Nは昼過ぎに起きた。そして昼食を求めてアウクスブルクの街に出るものの、(後になってわかったことらしいが)既に『遍くシャッターが降りる現象』は『街を包み込み出していた』ようで、結局空腹を満たしたのは、『どこまでも不幸ながら』マクドナルドという『資本主義のお化け屋敷』にて、だったそうだ。そして、『唯一の趣味であるところの』散歩をするも街は『シロップ抜きのフラペチーノ』ほどに味気なく、『新奇さの一片すら観取』できず、入館を目論んでいたフッゲライは休業で、とぼとぼとホテルに帰り『シエスタ』、起床はクリスマスミサも終わった夜更けで、最終的に例の『気怠い不協和音が種々のヘルツで流れている』ケバブ店にたどり着いた。

「まるで前衛劇の舞台装置みたいだったよ」と、Nは力を込めて店の様相を描写する、相変わらずのフランス映画流の仰々しさ。「とある狭く暗いショーウィンドウ、未だシャッターは降りていない、あるいは永遠に降りないのかもしれない、いずれにせよ中には三人、三、三、三だ、とても美しい。二人は若く、そして男、両者ともどもパンクの食い物だ。両耳ピアス(隠し得ない端正な顔立ち)、顎ピアス(瞼に赤いライン)、黒の革ジャンは同一で、その友情を全き人々へ公開していた。二つの煙は真っ直ぐ、そしてやはり二つの赤黄のトサカ。だがトサカの方は長い一日のためか傾ぎ、複雑骨折、悄悄たる様だ。肩を寄せ合い均衡する二人、一つの肩を突けば、両者とも崩れ落ちる絶妙なバランス。残り一人はアラブ系だ、女。鏡張りの壁は、猛禽類の猛々しさ、ピザサラーダ(ピザとサラダのことだよ、ピナコラーダみたいだろう?)をビアで流し込む女を中継中、その容姿は目も当てられない、多分手も当てられない、ザラついていて、ヤスリみたいに皮膚を剥ぐだろうからね。幾月ものネグレクト、磨耗した髪と肌、強固にも張り付いた疑心暗鬼溢れる挙動、まるで博物標本だ、うらぶれた中年女の。だから知らずと自ずと僕は願った、本物の彼女の背に目を遣って、実物は左右以外もあべこべであれ、鏡よ、全てを、概念すらも遍く全てを、逆さにせよと。もちろん加えれば、店員だっていた。奴は初め、バックルームにしけ込んでいた。十度呼ぶと、やっとこさいそいそ現れた始末だ。その御尊顔、顎に頰にの髭面、道化じみた笑み、無粋なトルコ男のワンオブゼム。僕はペプシコーラを、ケバブを注文した。が、奴はコカ・コーラしかないと図々しくも告げた。僕は改め、コカ・コーラにケバブ、と注文した。にも関わらず、奴さん、「コーラがない、おかしいな、コーラがない。さっきまではあった」と寝言が止まらない、脳髄から脳漿が決壊したみたいに。と途端、「あやしいな、あやしいな」の連呼、別種の脳漿を垂れ流す、ピアスたちに向かい「盗んだな、盗んだな。いい加減に、いい加減に、しやがれ、しやがれ、盗っ人め」がなり立て出した。どうしようもなくくだらん。終幕だ、悲しいかな、取っ組み合いを恐れたパンクは粛清された。多分、音楽のジャンルとしては化石に等しいからだ。「ブローと思ってたぜ」と清々しくも言い捨てたトサカ二頭は退場だ。一連のやりとり、僕は鏡越しにずっと眺めていた。で、ある時ふと気づいた、僕だけじゃない、同じように、あの、あべこべであらんと望まれるべきアラブ女も、鏡越しにパンクたちを見ているのだと。薄ら笑いを浮かべている手元、黄ばんだピンクのハンドバックには三缶のコカ・コーラ、そういう可能性も捨てきれないと僕は思った、もう、反証し得ない仮説に過ぎないわけだが。ともかく、最終的にことが収まれば、満足が髭にまで達していた浮かれ気味のトルコ男は、「勘弁してくれ」と僕に懇願する、図々しくも。コーラの失われた事態、僕はそれを受け止めた。「勘弁してくれ」と言いたいのは、実のところ僕だ、どれだけ失われたコーラを求めて彷徨っていたのか、ドイツ語は拙くとも、身振りで伝えるという選択肢が頭に浮かんでいた。が思い切って忘れることにした。忘れるのは得意だ、もちろん、諦めるのもさ。しかしまあ、恐ろしく寒い日で、一切のシャッターを降ろし終えた街、誰も彼も彷徨える羊なのさ、どうしようもない。他の水分を求める気にもなれず、僕は出てきたケバブを腹に入れた。いや、押し込んだと言うべきか。幸か不幸か、昔から唾液量が豊富だ、僕の口腔は。しかし、久方ぶりに枯渇を味わう羽目になった。どうしようもない日の、どうしようもない店の、どうしようもない食事において。味も、雑多に言ってひどいものだった。君に僕が体感した味覚を十全に伝えようとするなら、手っ取り早く、チリソースをかけた印刷用紙を差し出すべきなのだろう。すればわかるさ、大方のところは。もちろん、大方に過ぎない。痛みも苦しみも、相互に十全に理解するなど、どうしたって無理なのだから。ともかく、僕はまた新しい学習を一つ終えた。幾分か成長し、ここに戻ってきた」

 救いようがない。物語が難破している。「ご苦労様」ご愁傷さまと言いたいところではある。「遍くシャッターが降りる現象に包み込まれたアウクスブルクの夜、か。でも、いつかは旅の全てが思い出になる時が来る」私は慰めている。

「夜の果ての旅だ」Nは力を込めて拳を握る「セリーヌだ」。テーブルが叩かれ、マグカップが震え、がたがたと雪崩の予感が響く。「城から城へ、そぞろ歩き、パリに帰ることは、永遠にない」

 音節の分離は、抱かれる怒りを堪える必死さを表現したいのだろう。『全てを黒く塗る』、フランス作家、ルイ=フェルディナン・セリーヌが、人生を犠牲にして生涯拘り続けた文学的闘争。Nはそれを模倣し、アウクスブルクについて語った。けれど、背後にはマキへの恋心があり、やはり焼き直しに過ぎない。その黒は薄く荒い灰色。彼はまだ救いようがある。救いの手を求めているのだから。

 大体、起きた事態はこうだろう。マキとN、二人の間に齟齬が発生した。Nは失望を抱き、後悔と無念をかかえアウクスブルクへ逃避した、親に叱られ家出する子供みたいに。アウクスブルクでは空疎に時間をやり過ごした。自身の殻に閉じこもり、煮え切らない逡巡を繰り返した。そして今朝、再びミュンヘンに足を踏み入れた。頼るべき伝手がない状況で、最終的に私の元へと流れ着いた。同情すべきだが、いかにもありそうな、ともすれば相応しい成れの果てである。因果応報、独善の代償。時に虚しさは良き薬となるはずだ。そして、疑いなく彼自身はそれを望んでいた、無意識に。自らが正されることを、本能的に求めていた。自己保存欲求の欠如、個性を持たないというのではない、むしろ自我は強く固い、恐らく、問題は執着のなさにある。マキへの想いが黒く塗られてしまえば、それは『遍く』感染をみる。彼の世界は『全き』色彩を喪失する。通常ならば、途中で回避し回復しようとする。しかし、彼は波に漂うだけ、自ら泳ぐことはない、ちょうど、理由なしにドイツへ来たように、今、私の目の前にいるように。彼はセリーヌのよう、全てをなし崩しに損なおうとしている。だが心配はない。猿真似の自己破壊はどこまでも偽物であり、帰還し得ないほどに自己を損なう前に、立ち竦んでは踵を返すだろう。そういう意味で君は強いんだよ。

 結論、狂信的な自暴自棄、過渡期下にある自己破壊。すべきなのは、彼の話を聞いてやり、受け入れてくれる誰かがいると教えることだ。家出少年に対する臨床心理。

「まあこっちも」私は話を切り替える、「大変だった。大学生が揃えば、心温まるクリスマスというわけにはいかない」

「だろうね」とNは平坦な目を丸くして私を見る。「何があった?」

「酔っ払ったの、途方もないくらいに」こういう風に心を解してやればいい。

「君が?」

「マキちゃんが」これは誘い文句だ、彼の憎しみを放つための。

 Nの額には深い皺が二本走る。

「千鳥足のマキちゃんを送るのに、二人が必要だった」私とシンジ君が。

「それは」とNは会話を宙づりのまま、五本目に火を点ける。窓の外へと流れてゆく揺蕩う灰色の呼気、それは彼の躊躇いだ。Nの遁走、マキの酩酊、端緒を共通としている二つの事象。

「ご愁傷様」と、宙を漂っていたのかもしれない、私の言葉を無意識に奪い取るNは、再び雲を眺める。「飲み過ぎたか、マキが」と煙草を消す。シガーケースを弄んでいるものの、新しく吸い出すことはない。体が限界なのだろう。「馬鹿な大学生と何ら変わらない」

「それは言い過ぎだよ」と私は笑い掛ける。「誰だって羽目を外すことはある」

 彼はまだ雲を追っている。

「通り中に響く大声で歌ってたんだ、まるっきし外れた調性でね。正直に言ってしまえば、昨日は指折りに最悪の日だった、私にとってもね。そもそも、大勢のいる場所って苦手なの」

「広場恐怖症」雲に語りかけるN。

「というわけではない」と過激な物言いを解してやる。「でも馴染めないのは事実。集団ってものに」

「どうして?」Nはやっとのこと私を向く。目が合うと彼の頬が緩む。私の中に奇妙な緊張感が走る。

「どうしたって、序列が生まれてしまうからかな、複数が集まると。そういうの、どうもよく分からない、意味も、対処法も」

「平等主義者」

「というわけでもない」。喉の渇きを感じ、マグカップを傾ける。しかし既に空っぽ、黒い雫の一筋が口腔へと流れ込むばかり。「ねえ、これからの話をしない、そろそろ?」

 Nは眉を釣り上げる、疑問符の代替。私は掬ってやるべきなのだろう、やれやれ。

「部屋に関して」と私はNに視線を注ぐ。彼もまた、こちらを見つめている。

「部屋に関して」

「かっこう」と私は立ち上がり、歩き出す。Nも立ち上がり、追いかけてくる。足音はない。

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