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ユートピアからの手記 3/3

 ほんの二十三時間も前のこと、夕暮れが万物を美しい赤で染める中、僕はマキのキッチンでギターを爪弾いていた。その二時間前からずっと、僕は追い立てられるみたいに夢中で歌い続けていた。途中、詩が分からなくなり、メロディーを思い出せなくなりもしたが、演奏を止めることは絶対にしてはならないと、自らに言い聞かせていた。思いつくままの旋律に口からほとばしる言葉(大抵がありきたりでくだらないものだ)を乗せ、曲ごとの切れ目のない、終わりない音楽の中へと、僕は入り込んでいた。今思えば、悲劇の予兆みたいな、不気味な多幸感を身体中で浴びていた。ともかく僕はひどく楽しい気分を味わっていた。その一昨日に英国庭園でたくさんの人から賞賛を受けていたからだろう、自身の歌への自信を強め、響き渡る自らの声に酔いしれていた。ナルキッソスが湖面から目を離せなくなったみたいだ、自己愛に毒され、奇妙な万能感に捉われていたのだ。そして、これから始まる日々に懲りもせず妄想を抱き、マキと二人で送る暮らしに大きな期待をかけていた。その昼過ぎ、コンパートメントから最後の一人がとうとう去り、蜜月が訪れたと、世界中に大声で布告したい心持ちだった。僕が歌い続ける中、マキはコーヒーを淹れてくれて、出来上がれば二人で一緒に歌った。前日に彼女にプレゼントしたCDの曲を彼女はもう覚えていた。まともなコーヒーとお気に入りの曲、愛する人と声を重ねること。時はただただ至福だけを奏でているように感じた。しかし、そのうちにマキは大学の課題があると言って立ち上がった。僕はまだ彼女に傍にいて欲しかった。だから『ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド』を弾き出した。それがマキの一番好きな歌だと、僕は知っていた。だが、期待した展開とはならず、彼女は足早に部屋へ戻った。ちらりと横顔を見ると、そこにはしかめっ面が浮かんでいた。そこで思いとどまるべきだった、しかし僕は見間違いに過ぎないと見くびり、変わらない調子で演奏を続けた。底なしの自己陶酔である、全く愚かしい。何も見ていない、ただ自分の声しか聴いていない。だが身勝手に振舞っていれば、いつかしっぺ返しが酔いを冷ます。裁きの時はドアが告げた。それはすごい勢いで開けられ、バンと無機質な銃声を上げた。やおら僕は演奏を止める。カメラのシャッターを待つみたいに、瞬きすらも出来ない静止。マキは、付けっ放しの家電を消しに来るような何の感情もない風で、表情なく真っ直ぐ僕の元へ向かってきた。つかつかと小気味のいい足音、背に夕日を浴びて輪郭の赤いマキ、僕が認識できたのはそれだけだ。彼女の顔は真っ暗で、嵐の予感が身体中に広がる。半時間前のしかめっ面、フラッシュバック。マキは怒っているのだ、そう遅ればせに理解し、僕は洗濯の仕方を間違えられたワイシャツみたいに縮み上がったくしゃくしゃの表情を浮かべる。「どうしたの?」、切れ切れの言葉はまるっきり意味をなさない、マキはしばらく黙ったまま、僕を見つめ続ける。暗くてよく見えないものの、何故だかわかる。彼女の肩は小刻みに震えており、それは堪え切れない怒りの表れた、盲目の僕にもはっきりと伝わる記号だ。もう一度、今度は一息に「どうしたんだい、マキ?」と僕は訊ねる。腹に据えかねたものを、いっそのこと全てさらけ出してもらい、潔良く叱られたかったのだ。マキは大きく息を吸い込んでいる。僕は金属片みたいな固く重い唾を飲む。喉の鳴りが体内で膨れ、どこか他の部屋で発せられたかのように聞こえた。ついに彼女は口を開く、「晩御飯、何がいい?」。呆気に取られる僕、「そういえば」と英語に聞こえるまでに音節を分断させて「すごくお腹がすいたよ」と返事でない返事をする。諦め、マキはぷいっと振り返り、キッチンへと向かった。汚物から逃れるための素早さ。遠ざかってゆく撫で肩、震えが収まったのかどうかはわからない。冷蔵庫が開かれて、コンプレッサー音がキッチンを包み込んだ。食材が一つずつ調理台へと載り出した、全てはあまりにも呆気なく、あまりにも静かだった。そこは嵐の中心だ、言葉がどんな情報を運ぼうと、マキの内部には激しい感情が渦巻いていた、疑いようもなく。着火剤が僕であるというのも、同様に明白だった。僕は不安な面持ちで、趨勢を静観していた。彼女は何も説明をしなかった、加え、全く僕の方へ目を向けはしなかった。僕の顔がすっかり火照って、額からは汗が滴っていた。ポツポツとギターが鳴っていた。マキはキッチンを忙しく歩き回り始めていた、やはり足音はない。裸足なのかい、と呆けた台詞の浮かぶ余裕すらなく、僕はただ彼女の姿をぼんやりと眺めて、無言で問いかけた。「どうしたんだ、マキ。僕が何かしでかしたのか? もしそうなら、謝らせてほしい。欠陥だらけの人間なんだ、僕は。本当にすまないと思うよ。だけど、君を傷つける意図なんて、原子一つ分だってありはしない。ただ、君に幸せでいてほしいだけなんだ」(思い出すと恥ずかしさで身悶えするほどだ、その時に僕が抱いた想いは、百パーセント、独善と欺瞞と愚昧で構成されていた。ここまで純粋な邪悪さは、一流の詐欺師だって嫌悪感を抱くだろう)。やはり彼女は不自然なほど全く僕を避けている。忙しない背中に認めることができるのは、毛糸の解れだけだ。無音の問いかけとすがる眼差しは合切、えんじ色のセーターに飲まれていった。いや、発することのない言葉は、結局のところ自分の中のどこでもない空間に投げ込まれるだけか。誰にも聞いてもらえないならば、それは言葉とは呼べない。勇気を奮わせ、僅かな安らぎを自己の内部に育みはするが、暫くすれば忘れてしまうのだから。僕はもっとたくさんの言葉を彼女に投げかけるべきだった。呑み込むばかり、沈黙に逃げていた。どんな強い愛着を抱こうと、たちまちに希釈され、いずれはたち消えるばかり。だから、何度訓戒を与えられようとも同じ間違いを繰り返す問題児から、一向に成長しない。絶え間ない時の流れは、一切を腐らせ、粉々にする。マキへの申し訳なさがものの五分で萎み、ふと部屋に流れ出した幸福な食卓を思わせる音と香りに、腹の虫が鳴き出して、意識を空腹感で埋め尽くしたように。マキは手早くフライパンに油を敷き、コンロの火を点し、切り分けた食材を次々と放り込んだ。炒められ、水分を失い小さくなってゆくマッシュルームにほうれん草、サーモン、上がる蒸気は換気扇へと吸い込まれていった。僕はこういう何気ない一切を余さず覚えておかなくてはならなかったのだろう。でも、冷めたコーヒーを一口含み、ギターをスタンドに掛け、窓を眺めた僕は、目の前の何もかもを放り出している。愚かしいことだ、我慢しきれず、煙草を吸い出している。もちろん、マキからは何の反応もない。それまでなら、一言二言、苦言を呈したはずなのだ。「いずれにせよ」とその時の僕は身勝手な考えに逃げる、「問題が生じているのは確かだ。が、原因はわからない。ならば、どうしようもない。だってそうだろう、マキは何も言わない、ただ調理に一心打ち込んでいる風を装っている、なんでもないよと言わんばかりに。なら、もういいじゃないか、忘れろよ。ただのヒステリーさ、女にはよくあることだ。そもそも、僕が怒らせているとは限らない。何か別の問題に苛立って、当たり散らしているだけかもしれない。反論しえない仮説、無用な思い煩いなどやめにしよう」。自暴自棄だ、僕はホセのマグカップに吸い殻を押し込み、窓を閉める。と、ふと本来そこにあるべきもの、つまり鼻歌の消失に気づく。僕は料理をするマキが好きだ。その飾り気のない立ち姿、調子外れの歌声に、遠い昔の心落ち着く感覚を味わうことができた。いや、料理だけじゃない、彼女はいつだって、平和と安寧に満ちた緩やかで暖かな時を与えてくれた。彼女が傍にいるだけで、僕が抱え込んでいる、長らく解決策を見出せなかった躊躇いも逡巡も、一緒くたに溶けていった。下らない意味のないお喋り、歩幅を狭めて歩かなくてはならない面倒、予定通りとはいかない秋の空、僕はそれらを愛している。彼女とともに過ごす中で少しずつ、枯れかけていた感情は息を吹き返した。今思えば、この一週間ずっと、僕は幸せに包まれていた、ずっと求めて止まなかった至福に。でも、それはもう、素晴らしい思い出の一つでしかない。遠い。

 僕がマキに救われたのは疑いない。けれど、マキは何かを得られたのだろうか? 僕はその緩やかな陽だまりを味わうのに夢中で、一度も彼女の気持ちを慮らなかった。マキは前に、僕がドイツに来てよかったと言ってくれた。でもそれは単なる言葉だ。僕が自己欺瞞を繰り返してきたように、言葉は真実を如何様にも作り変えられる。だから、あるいは僕は、マキの優しさをすっかり無下にして、彼女を損なったのかもしれない。

 かもしれない、かもしれない、かもしれない。ああ、僕は曖昧な物言いと、無数の可能性の存在にいつだって逃げ込む。僕は確実に、彼女を傷つけた。

『僕は彼女を損なったのだ』

 そして失った。

 僕には何もわからない。わからない、わからない、わからない、わからない、マキが何を考えているかなんて、全くもって何もわからない。肌にすら触れたことがないのだ、心など言うまでもない。そもそも・・・、いや止めよう、事実だけを見つめよう。僕は何も知らない、マキのことを、もう四年の付き合いになろうとしているのに。僕はマキの優しさに安住していたがために、だからこそ彼女に受け入れられた存在だと思い込み、居候まで頼み込んだものの、彼女を理解する努力の一切を怠った。そして、距離を見誤り一線を超えた。僕らは互い、細い川を挟んで向き合っていた。もちろん、対岸とはいえ、見聞きするものは同じで、体験や想いを共有することができた。言葉を用いれば、より深くわかりあうことができた。でも、橋がなかった。だから声を交そうとも、触れることは永遠になかった。だから人は橋を築くのだ、時間と労力を注いで。一体、僕はこれまでずっと何をしてきたのだろう? つまるところ、何かを生み出す努力などとはかけ離れた行動ばかりしてきた。時間が過ぎれば自ずと距離が縮まると信じきっていた。自分は選ばれている、だからこそ橋など不要だ、一足飛びに川を渡ることができる。そんな風に思っていたのだ、馬鹿馬鹿しい。仮に僕が夢見る跳躍が可能であろうと、マキはそれを望んでやなかっただろう。突然懐に飛び込まれたところで、びっくりさせるだけ、喜ぶだろうなんて勘違いが過ぎる。結局、大げさな掛け声と空回りの助走の末、向こう岸に届くことなく、僕は川へ落ちた。激しい流れに抵抗できず、今ここにいる。なんとか溺れ死ぬことなく、再び岸へ上がったわけだ。だからもう一度、あの川辺へと戻ることはできる。幾らか歩いてゆくのは骨折りだが、依然として可能だ。しかし、マキはまだそこにいてくれるのだろうか? ともすると僕に苛立ち、ウンザリして、さよならなしに消えてしまったのかもしれない。ともすると、かもしれない、か、くだらん、それが事実だ。もう、彼女の心に触れる可能性は木っ端微塵に潰えている。

 その夕食は言葉少なに進んだ。子供の目前、良き両親を演じる夫婦のぎこちなさで溢れた会話、昨日まではとびっきりの甘さで舌を喜ばせてくれたコーンスープも、色鮮やかなサーモンとマッシュルームのピラフも、どこまでも味がなくパサついていた。ラドラーで喉を潤すも、ただただ口に残るのは苦味だけ。僕は全くに食事を進めることができなかった。マキはそれに関して何も言わなかった。彼女は淡々と食事をこなし、沈んだ空気に僕が悶々としている傍で、気づけば後片付けを終えている。僕がやっとのこと平らげると、いそいそと彼女は部屋へと姿を消した。僕は夜の散歩に出かけた。そして帰宅し、これから次の街に向かうとマキに告げた。彼女は何の疑問も挟まなかった。「いいんじゃない」と言っただけだ。

 いいんじゃない、か。

 悲しい言葉だ。彼女は僕のことなんてこれっぽっちも気にしてやしない。どうでもいい人からのどうでもいい贈り物なのだ、マキにとっての僕は。壊れようと残念がることもない、無くなろうと気づきもしない、取るに足らない置物、割れたカットグラス以下だ。いや、いなくなった方が気が楽なのか、厄介な同居人だった、僕は。馬鹿げた振る舞い、興ざめな言葉、ああ僕はどうしてこうなのだろう、そんな面倒を寄越す輩が消えれば、ただただハッピーだ。消えれば、学業に勤しむことができる、大声の下手くそな歌に神経を掻き毟られることなしに、静かで満ち足りた暮らしを送ることができる、もっと魅力的な誰かと一緒に。マキの部屋に居座ったのは甚だしい誤りでしかない、僕は一人でいるべきなのだ、やはり。分かっていた、この二年、僕は基本的に一人で、寂しさを思い煩う自分を嗤うことすらもできるほど、孤独に慣れきってしまった。だからこそ、浮かれ過ぎて羽目を外してしまった、はしゃいだのだ、僕は、夢見た街ミュンヘンで、マキがずっと一緒にいてくれて、それがどうしようもなく嬉しくって、忙しい母親に相手をしてもらった幼児だ、堪えてきた寂しさを爆発させ、諦めていた愛情の一切を彼女に求めた。しかし、僕は無垢な子供ではなく、マキは僕の母親ではない。尽きない愛情を注いでもらおうなんて、荒唐無稽でしかない。そもそも、自身に閉じ籠った理由を僅かでも省みればわかるのだ、僕という人間は拭いようの無い欠陥を抱えている。僕は人を決定的に不快にさせる。これは変更不可能な法則だ、定めだ、何人たりとも重力には逆らえない。同様に、マキが僕を愛してくれるはずがない。こんな不良品に対して、マキは本当に良くしてくれた、僕の記憶をどこまでもカラフルに彩ってくれた。だから本当は、感謝を伝えるべき恩人なのだ、マキは。恋人になろうだなんて、おこがましいにもほどがある。


 けれどやはり、虚しさと悲しさを拭い切れはしない。大方の失恋がそうであることを把握していようと、涙を流すことはないものの、痛覚を備えていないはずの胸が痛む。冷たい海に含まれているのだろうか、全身が締め付けられ、目を覆わずにはいられない。力を込めた拳でこめかみを殴り、頭をもたげずにはいられない。叫び出したくなって肺一杯に空気を吸い込むけれど、何かが僕を押さえつける、息詰まった呻き声は死にかけた象みたいだ。頭皮を掻き毟っていると、爪の隙間は赤い垢で一杯になる。そうして僕は煙草に火を点ける。白い渦が舞い上がり、部屋中へ拡がってゆく。灰色の世界はどこまでも優しく、無数の夢で溢れている。僕はぼんやり天井を見つめる。煙草を叩き、シーツに灰の塊が落ちる。「音楽も文学も哲学も、社会も大衆も法律も、何もかもがくだらない。愛も希望も祈りも理想も夢も」と僕は口にする。「そしてなににつけ、この僕という、他人を苛立たせ、気分を害するしか能がない、思い込みの激しい、わがままで手に負えない子供は、くだらんを通り越している、もう言葉じゃ埒があかない。無だ」。どうして僕は僕なのだろう、何度絶望すれば気が済むのだろう? いや、その絶望すらも単なる自己陶酔でしかない、だからこの絶望だってまがい物だ、僕は絶対に反省しない。そうでなければ、こんな子供じみた過ちを繰り返すことなどない。あまつさえ二十才を超えて、くだらないことに思い煩っている、僕は欠片も成長してこなかったのだ。だから、もうこれ以上他人に期待しないようにしよう、自分を受け入れてもらおうなどと夢を見ないようにしよう。僕は、どこまでも一人であるべきなのだ、つまるところ。過去、長らくそうであったよう、今そうであるよう、部屋に篭って、一人、静かに眠っていよう。帰納法で考えてもいい、Nの数値が一のとき、孤独だ。二も同上、三も、四も、いや、二十二までずっとだ、それぞれ孤独。となれば、二十三以上もまた、全て値は変わらない。僕はいつまでも、淀んだ空気の中、薄汚れたシーツに包まり、ただ救いの時を夢想し眠っている、独善と欺瞞と愚昧で出来た、廃棄物未満の男だ。さあ、ならば今日も大いに眠り、安らかな夢を見ようじゃないか。どこでもない場所から、どこにもない約束の地へと移行しよう。新しい大陸など、もはや見つかりはしない。ゆえに、ここには理想郷などない。だから、おやすみ。素晴らしき新世界へと、僕は旅立つよ。


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