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具象と抽象の間で―ゲルハルト・リヒターを見てきた話―

あいち国際芸術祭の熱狂が過ぎ去り、ふと我に返ると、豊田市美術館で気になる展覧会が開かれていた。1932年にドイツで生まれ、東ドイツから西ドイツへ移動して活動を続けてきた画家、ゲルハルト・リヒターの回顧展だ。

《不法に占拠された家》

中でも話題性が高いのが《ビルケナウ》というアウシュビッツ収容所をテーマにした作品で、リヒターは何十年にもわたってこの作品に取り組み、ようやく2014年に完成した。この作品に関する解説や画像はすでにネット上にいくつも登場しているが、それらを見るだけでは当然ながらピンと来ない。本物と相対してナンボ、というわけだ。

しかし理解が難しいのもまた現代作品の特徴。そこで、最近はガイド付きで作品を見る面白さに目覚めたこともあり、ギャラリートークの時間帯に合わせて美術館へ足を運んだ(有難いことに豊田市美術館では、木曜と休館日をのぞく毎日、ボランティアによるギャラリートークが行われている)。ギャラリートークが終了すると、今度は自分のペースで見るために2周目開始。気になった作品にじっくり向き合ったり、ギャラリートークでは触れられなかった作品を見たりして、少しずつ情報と感覚を結びつけていった。

《アブストラクト・ペインティング》(2016年)

ゲルハルト・リヒターという作家を特徴づけている要素として、若い頃に東ドイツで「写実的」な絵画や壁画を製作していたことがある(残念ながらその当時の作品は展示されていない)。西に憧れ、壁ができる直前に西ドイツへ移住してから触れた絵画の世界は、まったく新しく自由なもので、そこでリヒターの絵画に対する価値観が揺らぎ、彼独自の作品世界が生まれた。具体的には「フォト・ペインティング」や「アブストラクト・ペインティング」として知られる絵画があるが、興味深いのが抽象と具象の間を行ったり来たりしている点だ。アブストラクト・ペインティングの合間に《花》のような写実的な作品も制作しているし、家族の肖像画も描いている。

写真を下敷きに制作するフォト・ペインティングでは、完全なる写真のコピーであることを否定するかのように絵全体が少しずつぼかされている。このぼかしの程度が大きくなったのがアブストラクト・ペインティングであるような印象を受けた。また、写真に絵具をのせたシリーズ「オイル・オン・フォト」では、ランダムに乗せられた絵具とリアルな風景を映し出した写真が不思議なバランスで同居、いや拮抗していると言ってよく、リヒターの作品の性質をよく表していると感じた。

《花》
遠目で見ると非常に写実的だが
近くで見ると輪郭がぼかされているのがわかる。

豊田市美術館の展示では、リヒターの作品を年代順に並べたとのことだったが、実際に見てみるとそれだけではない。年代ごとの特徴が際立ち、次にどうやってつながっていったのか、関係性がわかるように展示が作られている。特に《ビルケナウ》までを1階の展示室で見せ、それ以降の作品を2階と3階の展示室で見せる作りは見事だと思った。

具象と抽象を行ったり来たりしつつ、リヒターが作品で追い求めたものは何だったのだろう。写真を題材にする、キャンバスに置いた絵の具をスクイジーで押しつぶし引き伸ばす、「無を示すのに最適」という灰色一色でキャンバスを塗り込める、家族写真の上に油絵具をちらしてみる、絵画を写真に撮る。色付きの鏡や視界をわずかにゆがめる透明ガラスを使ってみる……。

《8枚のガラス》を通して見る《4900の色彩》

こうしてみると手法はさまざまだが、一貫していることがある。作品を作るにあたり、偶然性を主体におき、できるだけ作者の主観が出ないようにしていることだ。ただし完全な偶然性に作品を委ねるのではなく、偶然性をコントロールするという形で作者は作品に関わっている。その点で興味深いのがドローイング作品で、紙に鉛筆という、シンプルな素材で描かれているのだが、これは偶然性と作家の作為が絶妙なバランスで配置されていて、とてもチャーミングな作品群になっている。

《2021年7月9日》

リヒターは「見る」という行為についてこだわっていたという。人がものを見る時、見る対象に手を加えることはしなくても、何をどう見るかは人によって違う。同じものを目にしていながら、まったく違うものが見えていることもよくあるし、ものごとを完全にあるがままに見るなど、果たして可能なのだろうか。

そしてビルケナウ。これは題材が超ヘビー級なのに加えて、リヒターが追求してきた「絵画とは?」というテーマの集大成でもある大作だ。アブストラクト・ペインティングの手法で描かれた絵画4枚の対面には、その絵画を撮影して同寸に仕立てた写真が置かれている。両者の間の壁にはグレーの鏡。さらにグレーの鏡の対面には、この作品のアブストラクト・ペインティングの下敷きとなった4枚の写真――アウシュビッツ収容所で極秘に撮影された写真(の複製)が置かれている。題材と手法が幾重にもこだました不思議な空間がそこにあった。作品の前に立つ私達はいったい何を見ているのだろう。あるいは「ホロコーストの一場面」という概念を体験しているのだろうか。

《ビルケナウ》とグレーの鏡

リヒターの画業はそれからも続く。ビルケナウ以後、作品の雰囲気が変わり、カラフルで自由なタッチになる。まるで生きていることを寿ぐかのような勢いだ。リヒターは現在90歳でなおかつ現役だ。その姿は、同じく90代で現役指揮者を続けるブロムシュテットと重なる。ブロムシュテット翁が紡ぎ出す音楽もまた、美しく愛に溢れたものなのだ。

《アブストラクト・ペインティング》(2017)
この作品をもって画業を引退するとのことだったが、実際は2022年も制作を続けているリヒター。
どことなくモネの睡蓮シリーズを思わせる色合いだ。

展覧会情報
ゲルハルト・リヒター
豊田市美術館
2022年10月15日〜2023年1月29日
https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/gr_2022-23/

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